JavaScript を必ず有効にしてください。無効になっていると正常に表示されません。

右岸物語 舞台は石狩川河口の右岸です

2023.07.26 公開
2023.08.18 更新

七十代最後の日となる本日,新しいページの公開に踏み切りました。
おそらくこのページが,【花畔・網】にとっての最後の新設ページになることでしょう。
Topicsの6/18b版で,個別のページには手が回らない,とボヤきました。”最近の更新”でもお分かりのように,6/7以降更新しているページはTopicsのみです。
情けないですが,力不足のなせるわざです。体力,気力,認知機能の衰えによるものです。
そこで年寄りは明日を前にして一念発起することにしました。

イキナリですが,新しいページです。新しい物語です。

私にとって,というより,【花畔・網】にとって,石狩川河口は特別な地です。とりわけ,ここの地形変化の妙に魅せられたことが【花畔・網】を15年以上続けてこられた原動力です。
とっかかりは左岸の河口砂嘴の形状の絶えざる変化でした。しかし最近は左岸に行くより右岸の方が楽しいのです。左岸が妙に観光地化しすぎたことが一番の理由なのかもしれません。さらに右岸には,たかだか100年ほどのことですが,人々が石狩川と時になごみ,時に闘った痕跡の数々が垣間見られるのです。

この新しいページは,そういった河口右岸のことどもを可能な限り正確に綴っていきたいと思います。
あらすじも何も用意していませんから,あっちに行ったりこっちに来たり,しっちゃかめっちゃかな物語になると思いますので悪しからず。

2023.07.26


【1】 空中写真は饒舌 知津狩川右岸側 2023.07.26
国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスのページから,1961年から1976年まで5年間隔の空中写真を得ることができたので,これらの画像から地形変化を見てみたい。
ここでは石狩川河口右岸のもっとも先っちょ,現在では来札水制工が設置されている知津狩川河口から先端側,河口導流堤のつけ根のあたりまで。これより先は石狩湾となり,すなわち日本海である。

1961.05.11

1966.07.14

1971.06.15

1976.08.26
おことわり (2023.07.28 追記)
国土地理院の空中写真であるにも関わらず,いずれの画像にも Google Earth のロゴが入っている理由
実は各画像を同一な方位,縮尺,範囲で整形するために Google Earth のイメージオーバレイ機能を利用した。
つまり,現在の Google Earth 画像に各画像をそれぞれ個別に上乗せし,角度,大きさ,位置を微妙に調整した。
その上で上乗せした画像だけを同一サイズで切り出したのだが,Google のロゴはしっかり残ってしまった。

1961年
河口導流堤本体工事はこの年施工開始とされているが,この日の画像で見る限り,導流堤のつけ根となる第二突堤が伸び出していることが分かるだけで,導流堤本体の工事の進展は。見られない
工事用の建物と思われる構造物は確認できる。
知津狩川の流路を大きく切り換える河川改修工事はまだ始まっていない。
知津狩川とともに日本海に直接注ぐ独立河川だった聚富川は,石狩川右岸の浸食により1945(昭和20)年ころ石狩川に呑み込まれて支流化した。呑み込まれた位置から下流の日本海への出口までは河跡としてまだ太く残っていて,導流堤工事車両のための橋が架けられている。

1966年
第二突堤の先にほぼ直角に導流堤が伸び始めている。
知津狩川の河川改修工事も始まったことが見て取れるが,知津狩新橋の位置までは掘削が進んでいない。

1971年
第三突堤(1970年完成),第一突堤(1971年完成)がこれほど明瞭に映し出されている空撮画像はほかには見当たらない。
これで分かったのは,第一,第三突堤は連続して伸び出している水制工ではなかったということである。(ふたつの部分に分かれている)
知津狩川改修工事はかなり進捗。すでに知津狩新橋が架けられている。

1976年
この画像の外ではあるが,河口導流堤は1973年に完成,ということで工事は打ち切られた。
知津狩川改修工事も1973年完成。
また,来札水制工はその前年1972年に作られている。
さらに画像の範囲外だが,北石狩衛生センターも1975年に竣工。

いずれの画像にも,2001年施工の2本の離岸堤はまだできていない。
各画像でで示したのは,1956年に建てられた波浪観測所跡(と考えられる)。各画像で位置はほとんど不変。

【2】 主要な登場人物 その横顔 2023.07.29

全体図 (画像取得日 2021/7/19)
左の画像をクリックして拡大画像を表示してください。
現在表示されている Google Earth の背景画像は2年前のものですから,形状変化の激しい河口先端部は現在とはかなり異なっている部分があります。
たとえば,k波浪観測所跡地は図では砂浜の上にあるように見えます(実際に2年前の夏はそうでした)が,現在では川岸から10m近くも沖合になって痕跡は川底に埋もれてなにも見ることができません。

1920-21(大正9-10)年,護岸に単床ブロックが施工される。
八幡地区は1988(昭和63)年の集中豪雨で被災。災害復旧工事として延長800mの区間に船揚場,船着場が整備された。単床ブロック施工区間の2/3以上に及ぶ。現在単床ブロック護岸の遺構は,区間の両端で損壊した残骸が散見されるのみである。
第一号水制 (河口導水堤とも呼ばれた)。1934-36(昭和9-11)年竣工。第二号水制とともに,石狩川河口部右岸側の浸食を抑える大きな役割を果たしたと思われる。河口水位が下がると水面上に顔を出す。
第二号水制。1937-39(昭和12-14)年竣工。第一号水制とともに,石狩川河口部右岸側の浸食を抑える大きな役割を果たしたと思われる。第一号水制より標高が低いので,水位がかなり下がらなければ水面上に顔を出さない。
第三号水制。1950(昭和25)年竣工。1971(昭和46)年の大雨により被災。現在ほとんど確認不能。
中村水制工。1972(昭和47)年竣工。前年,第三,四号水制が被災したための災害復旧事業として来札水制工とともに設置。聚富川の河口に位置する。。
第四号水制。1957(昭和32)年竣工。1971(昭和46)年の大雨により被災。現在運が良ければ水面下に僅かに確認できる。
石狩川口灯台跡地。1916(大正5)-1999(平成11)年,石狩川河口右岸に立つ。最初は前灯後灯の2基により川口導灯と呼ばれた。石狩川河口の形状変化に伴い,10回以上移設が繰り返された。1973(昭和48)年後灯が廃止され前灯のみとなる。1995(平成7)年FRPで改築されたがその4年後知津狩川の増水で倒壊,廃止された。
来札水制工。1972(昭和47)年竣工。前年,第三,四号水制が被災したための災害復旧事業として中村水制工とともに設置。知津狩川の河口に位置する。。
第三突堤。1962(昭和37)年施工された突堤が後に被災。改めて1970(昭和45)年施工。かなり損傷が進み,現在では頭がチラホラ見える程度。
第一突堤。一連の導流堤工事で最初に着工された。右岸の浸食を食い止め導流堤工事を円滑に進めるための水制工と考えられる。1959(昭和34)年に施工されたが後に被災。改めて1971(昭和46)年施工。この数年の浸食,汀線後退により2023年現在まったく確認できない。
波浪観測所跡地。導流堤などの石狩港改修事業を開始するにあたってあらかじめ海洋データを集めるために1956(昭和31)年,砂丘の高台に波浪観測所が設置された。その建物がいつまで存続したのかは定かではないが,建物が亡くなった後も砂丘上に基礎コンクリート遺構が残り続けていた。ところが2020年以降このあたりは烈しい浸食を受けて,コンクリート遺構があった砂丘はまるごと波に浚われて失われてしまった。現在遺構は海底で砂に埋もれてしまっているに違いない。
広く平坦な地。地ならしされたように平坦で海浜植生も少ない。おそらく導流堤工事のための宿舎が建てられたり,資材置き場として使われた場所なのだろう。かつてはこの川側(西側)には波浪観測所が建てられた小高い砂丘が連なっていたのだが,現在は川岸からほぼ同じ高さで平坦な地が続く。
2基の離岸堤。2001(平成13)年完成。1基当たり71.4m。この数年の右岸の浸食状況を見る限りにおいて,ここに設置された意義が問われる。
第二突堤。1960(昭和35)年施工のテトラポット堤。導流堤はこの先端からほぼ直角の方向に伸び出す。
河口導流堤。石狩港改修事業として,1961(昭和36)年本体工事着工。1973(昭和48)年完成。完成とはいうものの,この年に石狩湾新港工事が開始されているので,石狩港改修事業としては事実上の打ち切りとなる。

【3】 ふたりの乙女の悲話 聚富川,知津狩川 2023.08.02

A

B

C
【お断り】
左の3枚の地形図は,縮尺,角度など必ずしも一致していません。重ね合わせて一致させるには,基準となる(つまり年代を通して位置の不変な)地形,あるいは道路,建造物などが必要となりますが,残念ながら見つからないからです。かなりいい加減に原図から切り出しました。

A 伊能大図 1813-15(文化10-12)年 伊能図(大日本沿海輿地全図)の北海道部分は1800(寛政12)年伊能忠敬により測量されているが,その時は北海道の太平洋岸に限られていた。
日本海,オホーツク海岸については,1813-15年の間宮林蔵の測量データで補完されたものと考えられている。
B 5万地形図 1896(明治29)年測量
C 5万地形図 1935(昭和10)年修正測図

さてここで3枚の地形図を持ち出したのはほかでもない,そのいずれにも,大男=石狩川の河口とともに,ふたりの乙女=聚富川と知津狩川が描かれているからだ。ではそれぞれ,シヨツプ川,シラトカリ川,として。では,シュオプ川,シララトカリ川,として。では,聚富川の記載はあるが,知津狩川は河口部が図から北側にはみ出しているので河川名の記載はない。しかし地名としての知津狩はしっかり記載されている。
さらに,の伊能図は沿海の形状を調べたものなので,河口の位置はほぼ正確に違いないが,石狩川を除く中小河川の内陸の流路は不確かと考えられる。一方では細かな蛇行も測量に基づいて描かれている。

【2】では登場人物を人工構造物に限って抽出してしまったが,ちょっとまてよ,河川の秘話(悲話)も捨てがたいと思い急遽とりあげることとした。
現在では河口近くで石狩川に注ぐ支流となっている聚富川,知津狩川が,いずれもかつては直接石狩湾に流入する独立河川であったことが見て明らかである。
まずは聚富川と石狩川との距離関係を見て欲しい。 と年代を経るごとに石狩川が聚富川に言い寄っている,じゃなくて,迫っていることが歴然としている。

<<<2023.08.18>>>
もともと聚富川下流域は明治期以降町村界であり続けてきた。右岸側は聚富村(明治4年,仙台藩岩出山藩主伊達邦直主従180人が入植,その後当別へ),左岸側は八幡町来札と呼ばれた。蛇行している流路はときおり大きく変わり,紛争の火種となることも多々あった。右岸側はその後合併により,望来村聚富から厚田村聚富へと変わり,現在は石狩市厚田区聚富である。左岸側は石狩市八幡町来札であるが,大半が悲しくも石狩川の底に沈んでしまった。現在住民はいない。
1875(明治8)年,日露間の樺太・千島交換条約により樺太のアイヌ800人以上が江別の対雁に強制移住させられた。その後そのうちの多くが来札に移転してコタンを形成,漁業に従事することになる。しかしコレラ,天然痘などの流行が重なり300人以上のアイヌの命が失われ,日露戦争後ほとんどはもとの居住地の樺太に戻ることになる。

実のところこの悲しい物語はこういう展開を想定したものではなかった。聚富川がどのようにして石狩川に呑み込まれていったのかという経緯,たとえばつかず離れずしながらも抗ったのか,あるいは大雨の増水で一気に石狩川にさらわれたのか,そこらへんの実話を知りたいと思って資料など探してみた。が,この暑さもあって徒労に過ぎてしまった。結局は分からずじまいで申し訳ない。