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2010.04.23 公開
2016.04.25 更新
1931年(昭和6年)の生振捷水路の完成により,生振地区の長年の悲願だった架橋への機運が一気に高まった。
旧石狩川(古川)は流れがほとんどなくなっていたので,右岸から埋め立てて堤を伸ばし,狭くした水路に橋を架けた。(補注@参照)
開通年次を1936年(昭和11年)とする資料が多いが,ここでは橋名板記載の1935年(昭和10年)を採った。
昭和10年11月には,茨戸生振間にバスが運行したという記録もある。
この地には1894年(明治27年)以来茨戸渡船場があり,冬は氷橋が作られたが,観音橋完成後使命を終えることになる。
渡船場ゆかりの地には,記念碑「聖恩」が立つ。
橋の名は生振観音(勢至観音)に由来する。(補注A参照)
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単床ブロック護岸 |
2007.10.19 |
2016.04.22 |
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2008.02.09 |
2008.06.03 |
2008.06.22 |
2009.03.01 |
2009.03.06 |
2010.04.22 |
2010.04.22 |
2010.04.22 |
2010.10.29 |
2013.08.11 |
2013.08.11 |
2015.06.18 |
2015.06.18 |
2015.06.18 |
2015.06.18 |
2016.04.22 |
茨戸川沿いでは,岡崎文吉の手による単床ブロック(ヨーカンブロック)で施工された護岸の跡をいまなお目にすることができる。
1910(明治43)年から1917(大正6)年にかけて茨戸川(当時は石狩川)護岸に施工されたもののである。
観音橋周辺の単床ブロック護岸は1935(昭和10)年ころの締切堤防工事(補注参照)に伴って施行されたものだろう。
古色蒼然たる橋そのものとともに,貴重な現役産業遺産である。
なお,後年施工された単床ブロックとしては
・昭和20年代施工の矢臼場護岸
・昭和40年代施工の石狩河口橋直下
などでも見ることができる。
目次の分類では観音橋を便宜上中部湖盆に入れたが,厳密には中部/下部湖盆の境界に位置する。
片側(中部湖盆側)に歩道があるが,これは後日拡幅されたものだろう。
観音橋の下を潜り抜けて泳いでいくカモの親子がいた。ヒナたちが母親にお団子のようにくっついている。(2015.06.18)
2015.08.05 補注@ 【締切堤防工事】
1935(昭和10)年,石狩川旧河道を横断して茨戸・生振間に逆水防止のための道路兼用の締切堤防工事(500m)が施工された。
堤防の左岸茨戸側には貯溜水排出のための樋門が設けられ,その上部を橋とした。それが観音橋である。
ふたつに分けられた旧河道のうちの上流側(現在の中部湖盆),美登位〜茨戸間を湖水化することにより一大遊園地に造成しようという構想だった。
漕艇場,あるいは中洲を利用した遊園地の造成がただちに始まった。
遊園地は戦後北海道中央バスに引き継がれ,1970(昭和45)年ころから本格的に整備され「茨戸園」として賑わうことになる。
その後の経緯はまぼろしの橋参照。 |
2016.04.28 補注A 【勢至観音】
大正末,生振の実直な農民に観音菩薩から夢のお告げがあったという。
勢至観音堂を建て,生神様として病人に接するようになる。
目の不自由だった人が見えるようになったなど,霊験あらたかという噂が噂を呼ぶ。
信仰は石狩町内ばかりでなく,道内,本州,はては朝鮮,樺太からも参詣者が訪れるようになった。
診てもらう順番を待つ人々相手に境内に2軒の旅館まで建った。
1日の宿泊者が100人を越すこともあったという最盛期が,観音橋建設の前後とちょうど重なる。
渡船に頼らざるを得なかった生振外からの参詣者たちには,架橋は熱望されていたであろう。
また生振捷水路の通水で,新水路と古川(茨戸川)とにより囲われ大きな中洲状になった生振の住民にとって,茨戸へ通じる橋の完成はまさしく悲願だった。
思想,宗教に対する弾圧が進み,上海事変から2.26事件へと向かう先の見えない高揚と不安とが交錯する中で,”観音橋”と名付けられたのは世相の反映だったのかもしれない。 |
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