【いしかりガイド】
石狩・400年の歴史
2015.07.19 公開
2015.08.02 更新
■ 1600年前後の慶長年間 (1596-1615)
蛎崎氏の蝦夷地支配が豊臣,徳川から認知される 松前に改姓(1599)
1593(文禄3) 秀吉から朱印状交付 松前(=和人地)での交易権
1604(慶長9) 家康から黒印状交付 蝦夷地全域での交易権独占
松前藩により,石狩,天塩などの場所(交易の場,商場)区画が設定される
具体的にいつ場所が開かれたかなどは不明だが,石狩の地に和人が関与し始めたのは400年以上前ということになる。
確証はないのであくまでも”推定”
1605ころ石狩場所開設か?■ "石狩"が記録に現れるのは・・・
1635(寛永12) 松前藩地図 「いしかり,えそ多くあり」
1644(正保1) 正保国絵図
1700(元禄13) 元禄国絵図■ シャクシャインの戦い
1669(寛文9) 商場設置による和人主導の収奪的交易に対する反発
アイヌ集団内部での抗争
当時のイシカリの長はハウカセ
シャクシャインの蜂起には応じなかったが,石狩川河口に多くの部下を集め松前藩と交渉■ 「津軽一統志」
1670(寛文10) 津軽藩が派遣した密偵の報告書
伝聞ながら石狩付近の状況を詳しく記録している■ 水戸光圀の命を受けた快風丸
1688(元禄1) 石狩を訪れ40日ほど停泊,アイヌとの交易,周辺調査
石狩川中流へも足を伸ばす■ 石狩弁天社
1694(元禄7) 創建
松前藩石狩川秋味上乗役 山下伴右衛門 松前神明社の分霊をいただく■ 松前藩の場所経営
米が収穫できない → 交易,漁業,流通への課税 などで藩財政を支える
商場知行制 藩主直領地 / 家臣知行地(扶持として交易権を分与) 商場
↓ 享保年間 (1716〜1735) ↓
場所請負制 商人が運上金(税)を納めて交易を請負う 場所
場所経営の根拠地=運上屋
1858(安政5) 石狩改革で石狩場所請負が廃止される
1869(M02) 場所請負制度が最終的に廃止される■ アイヌの側からすると
松前藩成立以前 地方豪族相手に主体的,自立的交易 対等に近い関係
商場知行制 交易の相手,場所が制約される 受動的,従属的関係
場所請負制 商人により安い労働力として使役される 零細化,隷属的関係■ 石狩場所
1706(宝永3) 松前藩 石狩,厚田,浜益(益毛)場所を開きサケ,ニシン,アワビ,コンブなど漁業を経営
村山伝兵衛 石狩場所(松前藩主直領)を請負う
海岸線 小樽内川から聚富まで 長さ4里半
内陸側 本支流合わせて流域面積14,330km2の蝦夷地第一の大河石狩川流域
松浦武四郎の調査によると・・・ 東西40以上の場所の中で,
・アイヌ人数 最多
・運上金額 最高
・屈指のサケ漁場
・アイヌ人数の減り方も最も激しかった■ 石狩十三場所 鮭の交易場所
1726(享保11)ころ出揃う
本流のほかに,伏古川,豊平川,夕張川,島松川 などの流域
河口=トクヒラ に元小屋
13場所の交易所が河口にひさしを並べる
和人の進出が顕著となる■ 村山家 屋号:阿部屋(あぶや)
1706(宝永6) 石狩場所請負
1773(安永2) 阿部屋全盛 苗字帯刀,日本長者鑑
1815(文化12) 石狩十三場所一括請負
1816(文化13) 弁天社再興 村上家の守り神に■ 石狩改革
1858(安政5) 石狩調役並 荒井金助 ■ 明治維新
1868(M01)
1876(M09) 石狩元小屋(運上屋),大火で消失
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