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『花魁淵』

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2007.04.30 公開
2012.11.10 更新
2015.04.29 再開
2015.08.10 更新

2014年4月始めに【花畔・網】春眠突入とともに姿を消しましたが,およそ一年ぶりに再開することになりました。

内容の更新は,2009年10月以来の5年半ぶりです。
これからも更新頻度はとても少ないとは思います。

公開以来,お盆の前後とか,テレビ番組で”花魁淵”が取り上げられた直後以外はとてもひっそりとしています。
つまりここを閲覧してくれる多くのお客さんの動機は,どうやら”怖いもの見たさ”にあるようです。
が,そのご希望にはあまり沿えない,私の自分勝手なページであるということをあらかじめお断りさせていただきます。

2015.04.29

もくじ
2007年・『春の花魁淵』
4月30日
増補・『夏の花魁淵』
7月5日
完結・『秋の花魁淵』
10月24日
『おまけの花魁淵』
2009年10月23日
2015年4月27日

2007年・「春の花魁淵」


おおはしたさんからのメールが,プツンと音も立てずに不意に来なくなってひと月あまりになる。私の側に何か起因するものがあったのかもしれないが,要するに括っていえば,メールを書けないなにがしかの事情があるのだろう。そういう場合,私のほうからのメールも自粛することにしている。いわゆる音信不通状態である。

しかし,この間ずっと気になっていることがある。『花魁淵』である。

むかし札幌に住んでいたことがあるというおおはしたさんの母上の思い出の中に,「花魁淵」があるという。敗戦前後の不安と混沌の中で,華やいだ瞬間の数少ないひとつのものであったのかもしれない。

3月の始めに行ってみた。雪が少ない冬だったとはいえ花魁淵を取り囲む藻南公園はまだ雪に埋もれて眠っていた。淵を望むところまでもとても近づけない。お茶を濁すように,撮ってきた全景写真の1枚をおおはしたさんに送った。

写真を見て,母上は「ピンとこない」という。さもありなん。こんな時期の花魁淵なんて,誰の記憶にも残っているはずがない。

春になったら,もう一度花魁淵の写真を送ります,という約束をした。淵の深みのように,私の心に淀んでいたのがそれである。

4月30日
世の中は連休だという。きっと去年までなら世の中と同じ感覚で今日を迎えたのかもしれない。しかし今年の私は,毎日が連休である。しかも,抜けるような青空である。さらにその上,女房もいないのでなおさら退屈である。

これぞ『花魁淵日和』! と,膝を打つ。

3月始めと,ほとんど同じアングルの今日の藻南公園である。
おいらん渕(ここでいきなり「淵」が「渕」になる)の由来の看板がある。

その脇に古い地蔵が立つ。

裏に,昭和25年建立の文字は読み取れるが,地蔵そのものの由来は見当たらない。身を投じた花魁の死を悼んで,篤志家たちにより建てられたものと思うのが,この際妥当であろう。
雪融け期でもあり,上流にある藻岩ダムが放流中とのこと。

かなりの水流で河原まで降りてはいけない,という。
ともあれ,相変わらずピンボケな花魁渕を撮る。

いくらでも撮れるのがデジカメの強みであろうか。
家族連れなどの焼肉の煙がたなびく。
花魁渕の下流で豊平川に合流する支流に,南の沢川がある。さらに下流に向かって中の沢,北の沢などがあり,かつてはこの一帯を総称して「八垂別」と呼ばれていたという。ふりがなをつけると「はったりべつ」。なかなか味わいのある地名であるが,いまは残っていないのかもしれない。余談である。
ここまで来たらもののついで。渕の向こう側の崖の上にある展望所まで登ることにする。藻南橋を渡り,対岸の駐車場に車を移動し歩き始める。

「現在地」からいきなり急な階段。人知れず膝に老人性の弱点を持つ私だが,つい先日金刀比羅宮785段を登り切った実績を唯一の拠り所として登り始める。
ほぼ75段登ったところからの藻南橋
200段ほど登ったところからの藻南橋
かれこれ300段登ったところからの藻南橋
ここからは下ったり上ったりしながら展望所までの道が続く。ちょっと足を踏み外せば断崖絶壁から落下する。

思うに,当時はこんな遊歩道などなかっただろうに,花魁はいかにしてこの崖を登ったのであろうか。

いかに世をはかなんだとはいえ,うら若き花魁にとっては相当な苦難だったであろうことは容易に察せられる。
やっと展望所に辿り着く。

近くは硬石山から空沼岳,そして支笏湖のまわりの恵庭岳,紋別岳まで一望できる。
これが恵庭岳である。
眼下。
途中で格好の杖代わりになる枝を拾い,ようやく降り切ったところで総合案内板を眺める。案内板にもたれかかっているのが拾ってきた杖である。

これでもなお,おおはしたさんの母上にピンとこないということであれば,もっと緑が濃くなってからか,あるいはさらに紅葉の花魁淵かをお約束しなければいけなくなるのだが,いかがだろうか???

増補・『夏の花魁淵』
閑話

知る人もないはずのこんなページに,ときどき思い出したように現れるお客さんがいる。どうやら,”花魁淵”で検索しての結果らしい。

私も倣って検索してみる。札幌豊平川の花魁淵よりはるかに深い歴史に閉ざされた花魁淵があることが分かる。山梨県甲州市の花魁淵の由来は,時は戦国時代まで遡るという。明治の語り草とされる札幌の花魁淵など足元にも及ばない。そのおどろおどろしさにもまたすさまじいものがある。

故事来歴はともかくとして,花魁淵をわざわざ検索までして訪れてくれるお客さんというのは,つまるところ怖いもの見たさの心霊スポットマニアに違いない,というのが差し当たっての結論である。

そういえばもうひとつ,心霊スポットがらみのお客さんがちらほらやってくるページを私は持っている。

雪国では冬季間の道路の排雪は地方自治体の必須事項である。取り除いた雪は適当な空き地を確保して積み上げることになる。早くいえば”雪捨て場”,もっともらしくいえば”雪堆積場”である。

わが家の近くに屯田墓地があり,紅葉山通をはさんで隣接して雪堆積場がある。6年ほど前に,雪の山の変遷を記録したページを作った。

雪・堆積場(石狩・屯田墓地脇)である。

いまだにここに,”屯田墓地”で検索をかけてはるばる訪ねてくるお客さんがいるのである。屯田墓地もどうやらマニアの間では名の通った心霊スポットであるらしい。

かつて何度か,文字通りの意味で酔狂にも,札幌地下鉄南北線の終点麻生駅からおよそ8キロの道のりを歩いて帰ったことがある。

自宅まで残り1キロ足らずでどうしても通過しなければいけないポイントが,屯田墓地である。真夜中,そこまでは鼻歌まじりで気持ちよく歩いていたにもかかわらず,ここだけは怖かった。鳥肌立つ思いで一目散に駆け抜けたり,大きく迂回して帰ったりしたことを覚えている。

さらに蛇足。こんな無駄話を書くためにわざわざ二日続けて屯田墓地の写真を撮りに行った。墓地の遠景だけはなんとかまともに撮ることができた。が,近景はことごとくピンボケ写真になってしまった。なぜだろう?ま,単に私の腕が悪かったというだけのことにしておこう。

私ははなから心霊などに興味がないし,存在を信じない(怖いから信じたくない,というのが正しいかもしれないが)。だからここにお立ち寄りの皆さんも,決して心霊話などを期待してはいけない。

屯田墓地についての補遺 (2008.04.18)

1889年(明治22年),札幌市北区屯田(当時は篠路村,後に琴似町)に屯田兵220戸が入村した。その2年後,紅葉山砂丘の一角が,篠路兵村用の墓地として給付された。
琴似町が札幌市に併合される前までは,紅葉山墓地と呼ばれていたという。
墓地に付随して小さな火葬場も設置されたらしいが,墓地が広かった(当初,一区画20坪)ことなとで,土葬することも多かったらしい。
そんなことが伝えられたりして,屯田墓地の心霊スポット伝説が生まれたのかもしれない。

休題

本題に戻ろう。

4月30日のツアーでは上流の藻岩ダムが放流中で,淵まで近づけなかったのが心残り。
山の雪解けもそろそろ終わりに近いはず。

再度挑戦してみることにした。
今回の差し当たっての目標は『河原まで下りて,淵にもっと近づくこと

7月5日
いくらか右に振れたが,前回,前々回とほぼ同じアングルの藻南公園。
木々が茂って対岸の崖はまったく見えない。
公園の最上流端から下流方向の対岸の崖を望む。
白い岩肌のあの崖のことを,札幌の地名通は「白ガンケ」とも呼ぶのだそうな。
しかしそれほど通った呼び名とも思えない。
反対にいくらか上流方向にある藻南橋を見上げる。
今日は河原まで下りて,水際に近づくことができるようだ。
対岸の崖の直下の深みが,いわゆる花魁淵なのであろう。
立ち位置を変えて淵を眺める。
手前の浅瀬の流れはある程度速いが,崖下の水の流れは淀んでいるかのように極めて緩やかである。
崖を見上げる。
あの崖の上に,前回上った展望所が建っているはず。
平日なので,さすがに人出はほとんどない。
一組だけ,若者たちが河原で焼肉をしている。
下流に進むと,河原は石っころから大きくうねった岩盤状となる。
同時に川の流れは淵から瀬へ。
公園の下流の端から上流花魁淵方向を眺める。
瀬と淵を何度が繰り返しているのが見える。
そして川は,下流の真駒内方向へ流れていく。

今回はなんとか淵の近くまで近づけたのが収穫だった。
空がスカっと青くなかったため,淵の緑がかった深い紺碧が見られなかったのはまたしても課題として残った。

完結・『秋の花魁淵』

冬,春,夏ときて,これで終わってしまうわけにはいかないだろう。
花魁淵の紅葉の中に身を沈めてこそ完結するというものである。

10月24日
初霜が下りるも快晴。
今日を置いてほかにはないだろうというほどの紅葉日和。
9時過ぎ,藻南公園へと向かう。
着いていきなり目を奪われる。
慌ててはいけない。
まずは,公園の門碑である。
前回,前々回,前々々回に倣って,こだわりのアングルから撮る。
幾分華やいだ地蔵の前から階段道を下りる。
上流の藻岩ダムが補修工事のため放水中で,10月1日から来年1月いっぱい河原内は立入禁止とのこと。
確かにかなり増水している。
夏に訪れたときには座ってくつろげたあたりは急な流れの中である。

年寄りの冷や水,にもかかわらず下りられるところまで下りてデジカメを向ける。
ひと休みして,藻南橋を渡る。
橋の中ほどに豊平川の展望所がしつらえてあって,レリーフが飾られている。
上流側が「軟石採掘現場」,下流側が「石山馬車鉄道」。
おりしも橋の上では,北海道放送(HBC)午後の情報番組「Hanaテレビ」のアナウンサーやスタッフが紅葉の取材中。
ミーハーにも声をかける。
「いっつも見てますよ〜〜〜っ」「ありがとうございま〜す」
さて対岸「白ガンケ」の上の展望所まで坂道に再挑戦することにする。

100段目あたりから藻南橋を見る。
たどりついた展望所。
眼下の眺めと,背後の森の紅葉。

願ってもない青空だったにもかかわらず増水中のため,今回も淵の深い紺碧を捉えることができなかったのは,とても口惜しい。
だが,「花魁淵」にこだわるのはとりあえずこれでおしまいにしよう。

ついでながら,幽霊がまったく現れなかったことについては,せっかくここまで訪ねてきていただいた心霊マニアの皆様にお詫びしなければいけないかもしれない。
帰路の小林峠では,こんな看板が・・・

幽霊と熊とではどちらがコワいか?微妙である。


そして,メールはいつか必ず途切れるものである。

『おまけの花魁淵』

2009年
完結してしまったからというわけでもないが,2008年は結局いちども花魁淵を訪れる機会がなかった。
2009年石狩川の橋取材ツアー?などにかまけて行けそうで行けない状態が続く中・・・
10月23日,2年ぶり花魁淵の紅葉を訪ねた。。

右岸の崖の上の展望所に続く散策路(ふるさとの散歩道)沿い,さまざまな表情のモミジ。

水量が少なく,露出した河床の岩盤

2015年
4月27日,4月にして異例の夏日。
いきなり花魁淵へ向かった。ほとんど5年半ぶりである。
花魁淵はやはり,「粧う」秋こそが真骨頂。
残念ながら「笑う」春の華やぎにはやや遠く,桜は数本ていど。
それでも焼肉の煙があちこちからたなびいていた。

藻岩ダム放流による増水中のため岸辺には近寄れない。

藻南橋の中ほどにある展望空間にはかつてレリーフが飾られていたのだが,なぜか撤去されていた。


a

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g

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(a) 藻岩開基110年記念
(b) おいらんぶちの由来
(c) お地蔵さま
(d,e) サクラと白ガンケ
(f,g) 掟を破って怒涛の流れに接近
(h) 藻南橋の上から
花魁が身を投じたという淵の方角を見つめて佇む地蔵尊
その顔はいつに変わらず,どこまでも柔和。
この国では憲法を空洞化していつでもどこででも再び戦争が出来る国に変えようとする動きが加速している。
地蔵尊は,いつまでこの顔を保ち続けられるのかを,私たちに問いかけているようにも思える。