思いつくままに 石狩海浜ホテル

2019.09.15 公開
2021.05.16 更新

2013年11月,石狩浜海浜植物保護センター見本園内の湿性植物の池の下を掘ると基礎コンクリートの残骸が現れた。
その3年後の2016年10月,湿地エリアの改修中浴室の一部と思われる遺構が発掘された。間違いなく石狩海浜ホテルがかつてここにあったことの証しだった。
様々写真を撮り,簡易なメジャーで長さをあれこれ測定した。
設計図を基に Google earth を用いて現在の地図上に海浜ホテルを投影してみた。
基礎コンクリートが現れたのはホテル正面に向かって右側(南西端)にある浴室などの一部のみだ。
たったそれだけのデータからの再現なのだから不正確であることは否めない。
にしても,まぁ大体こんなところだろうとの自負はある。

2012年からガイドボランティアに誘って頂いたのが縁で,昭和40年代の本町地区の話を聞く機会に恵まれた。
空襲で焼け落ちたホテルの基礎がこどもらの格好の遊び場だった,という話。
街並みから海水浴場へ向かう小径の左側に壊れたタイルの浴槽があった,という話。などなど
いよいよ海浜ホテルについて興味をそそられあれこれ資料を集めた。
私なりにまとめなければいけない,と思いつつ,重荷を感じて今日まで日々が過ぎた。

このほど,いしかり砂丘の風資料館で海浜ホテルのテーマ展が始まったという。
ならぱそれをきっかけとして自分でも少しずつまとめてみようと思いたった。
なにごとにも主題から外れた端っこをあれこれほじくるのが好きなたちなので,テーマ展と内容がすっかりオーバーラップすることはないだろう。

私には建築に関する造詣は皆無である。どれほど立派な建物だったのかなどとても説明できない。
そのことがホテルについてまとめるに際して最大の阻害要因として立ちはだかってきた。
今でもだ。だからその点については諦めて触らないことにした。
谷口雅春さんらの論考(たとえばこれ)にお任せして,ここでは自分の足と目で確認できる範囲の端っこの話題を追いかけることにする。

あくまでも一市民のささやかな思いを画像と共に綴ったものである。

目次

0 ホテルの経緯 知られていることであるがとりあえず・・・
発掘画像 画像の発掘にも随分な時間がかかってしまった
現在の地図にホテルを投影する
どこにどういうふうに建っていたかにこだわる
ホテルの前には砂丘はなかった ホテルの一階からでも石狩湾をひろびろと眺望できた
時代背景 洋式ホテルの整備充実は国策だった
飯尾円什のこと で触れたのでもう書かない
そのほか おすすめ,など


■■■ 0.ホテルの経緯 ■■■

2019.09.19
1932 昭和07 計画表面化
6/2 石狩の砂丘に大遊覧ホテル / 工費五十万円で建設
1935 昭和10 田上義也氏設計により着工
11/12 砂丘とはまなすの石狩に海浜ホテル建設 / あす地鎮祭を執行
12/18 上棟式
12/22 石狩海浜ホテル / 完成は来春五月
1937 昭和12 5月 ほぼ竣工。しかし資金難により内装工事などはストップ
以後,ホテルとしてはついに一度も営業されず。
1939 昭和14 5/24 石狩海岸に傷兵静養所 / 海浜ホテル近く陸軍に献納
7,8月 工業地帯開発に関わる視察団との懇話会,歓迎会などに利用される
1942 昭和17 道庁に売却 第二健民修錬所となる
のちに軍が借り受け
1945 昭和20 終戦直前には米軍機の監視塔としても使われていたようだ
7/15 米軍の空襲により焼失
2013 平成25 基礎コンクリートの一部が発掘される
2016 平成28 浴室の浴槽が発掘される
11/5 空襲で焼失 幻のリゾート「石狩海浜ホテル」 / 浴槽か コンクリ片見つかる (*)
この色の項目は当時の新聞記事(北海タイムス)の見出しである
(* 北海道新聞)


■■■ 1.発掘画像 ■■■
日付は発掘日ではありません。
知らせを受けて私が撮影した日付です。
実際に発掘されたのは撮影日よりやや以前となります。
2016年までの発掘に至るには,保護センター普及員をされていたTさん,Wさんの労力の賜物と思われます。
2013年
11月
2日
保護センターに立ち寄る。
湿性植物の池の下に基礎コンクリートの残骸?があるという。
その時点では海浜ホテルの遺構であると考えるにはまだ半信半疑。
そのせいか撮った写真もこの1枚のみ。よく分からない画像で残念。
2014年
4月
6日
直接海浜ホテルとは関係がないと思われる余談

弁天の丘(通称・展望の丘)中腹あたりから北側の砂丘にかけてガラス壜とか食器類などが大量に散乱ないし埋まっている。
昭和30年ころまで石狩町のゴミ捨て場として使われていたらしい。
2015年
5月
5日
弁天の丘(通称・展望の丘)から眺めた画像。
矢印で示すところに,巨大なコンクリート(中は空洞と思われるが)の直方体が転がっている。
海浜ホテルの遺構なのかどうかは不明である。
2015年
9月
22日
明らかに基礎コンクリートの一部が発掘される。
海浜ホテルの遺構であることは間違いない。
2016年
6月
18日
進展なし。まだ浴室・浴槽は現われず。
2016年
10月
15日
ついに浴室・浴槽の一部が発掘される。タイルがとても綺麗。しかし浴槽は設計図よりもかなり小さい。
2016年
10月
17日
2016年
10月
22日
2016年
10月
24日
このころは頻繁に保護センターを訪れ,写真もかなりの枚数撮ることができた。
保護センターの運営が海辺ファンクラブに委託される前の最後の年だ。
石狩市の直轄運営で,”よそんち”感もなかったからだろう。
近影
2019.09.02

2019.09.26



■■■ 2.現在の地図にホテルを投影する ■■■


A

B

C

A 石狩海浜ホテル 平面図 間口 25間 (45.5m); 奥行 11.5間 (20.9m)
B 石狩海浜ホテルを Google earth 上に投影
発掘された基礎コンクリートの位置,長さなどを測定して,その部分を基に Google earth に平面図をオーバーレイ(重ね合わせ)して,基礎の形状をなぞったものである。
ただし発掘された基礎は,男性浴室などのごく一部でしかないため,位置や角度などの精確さは保障されない。
大きさ,形については平面図に基づいているのでほぼ精確と考えている。
C 視野を広げて投影
ホテルの玄関からこの図の(つまり現在の)汀線までの距離はおよそ 180m。
B,C とも,Google earth の背景画像の取得日は 2018.09.20 とされている。



■■■ 3.ホテルの前には砂丘はなかった ■■■


A

B

C

A 『石狩市21世紀に伝える写真集』に収録されている”石狩砂丘側から見た海浜ホテル”の画像である。
基礎や浴槽が発掘された浴室側斜め背後の砂丘高台から撮られていて,ホテル前面の石狩湾が写りこんでいる。
写真の左側をさらに拡大したのがこの画像だが,ここで海との関係に注目したい。
現在,海浜植物保護センターと海水浴場の間に横たわる砂丘がまったく存在せず,砂浜から海へと平坦につながっている。
この写真だけでははっきりしないのだが,海が近くにも感じられる。
かつて昭和10年測量の地形図で調べた時には当時の汀線は現在より50mほど手前だった。
それでもなお”このあたりの海岸線の形状は幕末のころから固定されていた”と信じて疑わない頑固な人もいるかもしれない。
B 国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスから入手した1961(昭和36)年5月11日撮影された空中写真である。
いわゆる第二砂丘は街並みの背後に黒々と横たわるが海側の第一砂丘は存在しない。
多少起伏が感じられる程度である。昭和40年前後のわんぱく少年(失礼)の証言”うねっている程度”だったにも合致する。
C Google earth の現在画像(2-C)に B の空中写真をオーバーレイしてみた。
2018年と1961年との両方の画像が透かし見えるようにオーバーレイの透過度を50%程度に抑えている。
本町地区の縦横の道路がほぼ完璧に合致するように重ね合わされている。
これによると,1961年当時の汀線はすでにほぼ現在と変わらない。
やや緑色に浮かび上がっている現在の第一砂丘があるあたりには,1961年当時には小舟や小屋などが設置されていたことが分かる(車ではなさそうだ)。
現在の海水浴場背後の砂丘については,昭和40年代,駐車場整備のために土砂を寄せたのを契機に砂丘に発達したというのが古老の皆さんから知り得た推測である。現在では最高で高さ7m程度にもなっている。
蛇足ながら,海側の砂丘を第一砂丘,内陸の砂丘を第二砂丘とする呼称にはやや違和感を拭えない。
なぜなら,第一砂丘が存在しないのに第二砂丘のみ存在した年代があったことになるからだ。
あくまでも歴史的経緯(成立の順番)に基づいて第一,第二とするべきではないだろうか。
海浜ホテルとは無縁な話だが,でも海浜ホテルが示唆してくれた貴重な指摘ではある。



■■■ 4.時代背景 ■■■
この節はまだ書きかけです。
今後必要に応じて追補,訂正があるかもしれないことをあらかじめお断りしておきます。 (2019.10.28)
この節のテーマは,昭和初頭の”観光”を取り巻く動きを大雑把に俯瞰することで,石狩海浜ホテルが構想された背景を推し量ることである。

 □□□ a) どんな時代だったのか □□□
1914 T03 第一次世界大戦 1918まで
1920 T09 戦後恐慌
1923 T12 関東大震災
1929 S04 世界恐慌
1931 S06 満州事変
1932 S07 上海事変
1933 S08 国際連盟脱退
1937 S12 日中戦争
1939 S14 第二次世界大戦
1941 S16 太平洋戦争
1945 S20 日本,無条件降伏
暗い項目ばかり並べてしまって申し訳ない。
第一次世界大戦中は好景気だった日本は,戦後恐慌に端を発し,大震災,金融恐慌,世界恐慌なども重なって昭和の初期には極度の不景気のどん底に陥っていた。
やがて軍部が台頭,戦争へとまっしぐらに突き進む時代の幕開けとなる。
海浜ホテルもそうした時代の中で構想され,建築され,そして焼け落ちたのだった。

 □□□ b) 洋式ホテルの建設が求められた □□□
1929 S04 帝国議会 「外人来遊に関する建議」可決
輸入超過の国際収支を外国人観光客による収入で改善しようとの意図に基づく
1930 S05 鉄道省に国際観光局を設置 ホテル事業の助成に本腰を入れることになる
”観光”という文字が官庁用語として使われたのはおらくこれが初めて
以降,大蔵省の低利融資制度により全国に14の国際観光ホテルが開業
ただし融資の対象は地方自治体による官営ホテルに限るとされていた
1932 S07 北海道庁が低利融資を受けての観光ホテル建設構想
1933 S08 道庁によるホテル建設計画は暗礁に乗り上げ,かわって民間によるグランドホテル建設構想が具体化
1934 S09 札幌グランドホテル開業
それとは別に,国威高揚と観光の側面からオリンピック招致の動きが加速する
1928 S03 秩父宮来道 冬季オリンピック招致の可能性に言及
洋式ホテルと大型ジャンプ台の建設を促す
これにより冬季オリンピックの札幌招致の気運が高まる
1930 S05 紀元2600年(西暦1940,S15)記念事業として東京オリンピックが提案される
1931 S06 大倉シャンツェ建設
1936 S11 第5回オリンピック夏季大会開催地 東京決定
1937 S12 第5回オリンピック冬季大会開催地 札幌決定
1938 S13 日中戦争泥沼化,オリンピック開催権を返上
a) でみた大きな時代の動きの中で,国威高揚と外貨獲得の命題の元に”国際観光”と”オリンピック招致”が掲げられた。
その必須項目として洋式ホテルの建設がほとんど国策として推進された時代だった。

 □□□ c) 石狩での動きを考える □□□

上に書いた時代背景と石狩海浜ホテルを直接結びつける資料は残念ながら持ちあわせていない。
だからここで書くことは状況証拠からの私の推論であるということをあらかじめお断りする。

「石狩海濱ホテル 創立趣意書」の中にも,時代背景に関わる文言は見つけられないが,それとは別に

--- 北海道ハ物心共ニ,拓殖文化発展ノ中心ヲ石狩河口ニ求メテハジメテ其完璧ヲ期シ得ラルゝモノト深ク信ズル所デアリマス。

という文章の中に,石狩こそが北海道の中心であるべきとの”石狩愛”が噴出しているし,いいかえるとそれは,札幌への強いライバル意識だったともいえるだろう。

その石狩海浜ホテル建設を提唱した中心人物は飯尾円什だった。
飯尾は本町にある浄土真宗・能量寺の住職で,同時に戦前には石狩町会議員,戦後は初の民選石狩町長として当選した,僧侶でありかつ(地方)政治家である。現在市庁舎前には胸像(背面)も立つ。

飯尾が力を注いだ活動として,ここでの「石狩海浜ホテル」のほかに
戦前では,「海浜学校」,「石狩工業港築設」
戦後では,「砂地造田による食糧増産」,「石狩鉄道」,「円形校舎」など数多く知られている。

成功したもの,失敗したもの含め,一言でいえば『機を見るに敏し』。
政治家としての嗅覚がきわめて鋭い人だったといえるのではないだろうか。

1932(S07)年の北海タイムスに

3月9日付けで,『札幌に観光ホテル/いよいよ具体化/低資六十五万円融通』
6月2日付けで,『石狩の砂丘に大遊覧ホテル/工費五十万円で建設』

という見出しの記事が掲載されている。
上の見出しにある札幌の観光ホテルとは道庁主導の官営ホテル計画で,そのアドバルーンの打ち上げに即座に反応している石狩の機敏さには驚くほかない。
当然それ以前から国策としての洋式ホテル建設推進の動きを睨んで動いていたことだろうことは疑いない。

大風呂敷の企画者と,無鉄砲な実行者(建築請負業者)がいて,海浜ホテルはとにもかくにも落成した。

昭和10年代,道庁は石狩湾沿岸一帯を一大工業地帯とする構想を打ち出してもいた。
資金繰りがつかず,建築請負業者にホテルを所有権保存登記されにっちもさっちもいかなくなった飯尾は石狩工業港の実現に力を注いでいる。
ホテルとの相乗効果を見込める港を実現することで,窮地に陥った状況を打開しようとしたのだろうか。
しかし工業港も工業地帯も戦争の激化によりすべて水泡に帰した。

 □□□ d) いまと似ている □□□

そしてここは石狩海浜ホテルとも離れて,私のまったく個人的な思い。
だから,読み飛ばしていただいて結構です。けど,短いですから読んで欲しい。

近頃やたらと耳につくことばに”インバウンド”と”にーまるにーまる”があります。
どちらも耳に心地好いと思われている皆さんには申し訳ないのですが,私にはとても耳障りな響きなのです。

訳のわからない”インバウンド”ってどうやら外国人の来訪(客)のことを指すのですって。
最近ようやく理解できましたが,なら,日本語でそういえばいい。

一方の”にーまるにーまる”。
いまだに漂流する汚染水の処理問題など抱えながら,福島原発事故をアンダーコントロールと言い放って招致した東京オリンピック。
IOCもIOCだが,いまさらにマラソンを札幌で,などと揺れている。

インバウンド”と”IR(賭博場つき複合施設)”に象徴される『観光立国』と,混迷する”にーまるにーまる”『オリンピック
それはまさしく石狩海浜ホテルが建設された昭和の初めの世相と瓜二つと思われて仕方がありません。

そしていま政権は,憲法を無理やり変えて戦争のできる国へと突き進もうとしています。
海浜ホテルの時代背景を眺めることから,おんなしことを繰り返しちゃダメだべさ,と思う私です。



■■■ 6.そのほか ■■■

 □□□ a) おすすめ □□□

・安田秀司 ,2019,「彫刻家本郷新と建築家田上義也~二人の関わり,そして石狩との関わり」,いしかり暦,石狩市郷土研究会
安田氏には,飯尾円什と田上義也との接点を掘り下げてくれることを期待している。
ただし,本郷にしろ田上にしろ,また飯尾にしろ,名のある人間であればなおさら厳しく接して欲しいと思う。


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