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土木学会選奨土木遺産
茨戸川の岡崎式単床ブロック護岸

2016.05.01 公開
2017.11.10 更新

お断り
今年はさる事情から単床ブロック護岸についてかなり詳しく調査する機会に恵まれ?ました。(Topicsを参照してください)
その結果,このページの記述にはいくつかの誤り,ないし消化不良があることがわかりました。
いずれできるだけ早い機会に訂正したいと思います。
それまでの間は,ページ内に誤りがあるということをお含みの上閲覧して頂ければ幸いです。

(2017.11.10)

訂正済みのページはコチラです。

単床ブロックはコンクリートの直方体ブロックを鉄線ですだれ状に連接した河川の護岸材料。(ヨーカンブロックとも)
1909(明治42)年,岡崎文吉により考案される。

1898(明治31)年9月,石狩川流域を襲った大洪水では112名の死者が出る。さらに1904(明治37)年6月にも大洪水が発生する。石狩川の治水は急務となった。

1910(明治43)年,岡崎文吉は石狩川治水事務所の初代所長となり,石狩川治水計画に着手。
現河道をできるかぎり保存しようとする方式に基づいていた。

この年から1916(大正5)年にかけて花畔,ビトイ,伏古別などで単床ブロック護岸が施工される。
花畔付近(現・茨戸川)は決壊の長さや湾曲の度合いが著しいことなどにより,最初に護岸工事の対象になったようだ。
1917(大正6)年,花畔付近での石狩川護岸工事は竣工となる。
そしてそれから100年を経た今でも現存し,護岸機能を果たしている。

単床ブロック護岸は,経済性,耐久性,さらに構造が柔軟で原始河川の河岸に敷設する適応性(施工性)に優れていたと考えられる。

この護岸はその後も道内,国内はもとより海外(ミシシッピー川など)にも普及し,その技術は現在においても継承されているという。
川の博物館での展示

館内展示 館外展示

目次

石狩川護岸工事 起/終点標
大正6年竣工の単床ブロック護岸
昭和10年ころ施工された単床ブロック護岸 観音橋および茨戸締切堤防
昭和20年代に施工された単床ブロック護岸 矢臼場護岸
昭和40年代に施工された単床ブロック護岸 石狩河口橋直下
図①

目次1,2,3関連

(2016.07.02更新)
図②

目次4,5関連


□□□ 1.石狩川護岸工事 起/終点標 (図①) □□□          [関連ページ
標柱が立っているのは現在の茨戸川右岸堤防上。

石狩川護岸工事は
起点標柱によると,1916(大正5)年度着手
終点標柱によると,1917(大正6)年度竣工
となっている。

それを記念する最初に立てられた標柱(花崗岩)はいつしか倒れ,忘れ去られていたものと思われる。
1989(平成元)年工事中に発見された旧標柱を台座中央にガラスで覆って埋め込んだ現在の標柱は,1992(平成4)年に再建されたものである。

工事始点標柱
 

 

 

旧標柱 
工事終点標柱
 

 

 

旧標柱
(2016.04.22)


□□□ 2.大正6年竣工の単床ブロック護岸 (図①) □□□
単床ブロックによる護岸は起/終点間で施工されたに違いないが,現在そのすべての区間で見られるというわけでもなさそうだ。
河岸洗掘が激しい部分では,鋼矢板などによる新たな護岸がなされていたりする。

私が4月22日にとりあえず確認した区間は,生振11号樋門のやや下流域。(図①参照,の区間))
長さ200数十mにわたって幾分途切れつつもずっと見ることができた。
(区間の上流から下流下流から上流)

このあたりの岸辺はヨシ類やイタドリ,その他の雑草ですっかり被われている。
それらが芽出し前かまださほど伸びていない4,5月なら余裕で歩けるが,6月の半ばを過ぎると薮漕ぎが大変になるだろうし,うっかりすると足を踏み外して川に転落しかねない。
(6/26 の川辺。とても確認できそうもない)

また樋門のやや上流にカワセミの営巣ブロックが設置されている。
5月にもなると子育ての時期にもなると思われるので,静かに見守ってあげたいものだ。


 

 

 

 

 

 
(2016.04.22)



2016.06.24
開発局札幌河川事務所により開催された”石狩市内の治水施設見学会”に参加。

上に記載した単床ブロック(図①-区間)は戦後にかなり改修されているということである。
大正時代の原形のままで残っているという箇所に案内された。(図①-点)
最初はバスで堤防を走って現地へ。この日のために草が刈りはらわれていて陸上からブロックを眺める。
次に調査船弁天丸に乗船。最初下流に向かい,運河を出て石狩河口橋下でUターン。
戻って上流に向かいブロック・ポイント(点)まで往復。(この日の弁天丸航路)

云われて見ると確かに区間は思いのほか整然としている印象だったのに対し,点のブロックはガタガタでまともに機能しているのかどうか・・・
壊れていても改修など後の時代の手が入っていないということをもって,この部分のブロック(のみ)が土木遺産に認定されたということなのだろうか?
ここらへんに若干疑問の余地が残る。


陸上から

陸上から

水上から

水上から
なお,上の陸上からの写真は後日(6/26)出かけて撮りなおしたものである。



2017.04.27
文化庁の近代遺跡調査の対象に選定されたという(詳しくは,Topics を)。
昨年,治水施設見学会で案内された箇所(図①-点)を訪れてみた。
保存,保全の状況は必ずしもよいとはいえない。
ついでにこの箇所から生振11号樋門までの間(図①-区間)を歩く。

図①-

図①-

図①-区間

図①-区間
図①-点ではブロツクの連結はかなり崩れていて,護岸の機能はほとんど失われていると思われる。
(ブロックのサイズは,おおよそ 15cmX60cm)
図①-区間では整然と敷設されていて,ブロックの表面もくたびれていない。


□□□ 3.昭和10年ころ施工された単床ブロック護岸 (図①) □□□
1931(昭和6)年生振捷水路が通水されると,旧川(現・茨戸川)は切り離されてほとんど湖沼化(三日月湖)する。
1935(昭和10)年前後,流れのなくなった旧川を右岸から埋め立て(締切堤防),生振住民の悲願だった橋がかけられる(観音橋)。

この締切堤防の両岸,および観音橋周辺でも単床ブロック護岸が施工されていて,現在でも容易に見ることができる。

締切堤防護岸
上流側

上流側

上流側

下流側
観音橋周辺
パラト中島橋から

パラト中島橋から

左を対岸から

橋の下流
(2016.04.22)


□□□ 4.昭和20年代に施工された単床ブロック護岸 (図②) □□□          [関連ページ
石狩川は矢臼場のあたりで大きく右に流れを変える。最後の蛇行である。
湾曲の外側にあたり浸食が激しい左岸では戦前から併行水制が施工されていた。
1951(昭和26)年には戦後はじめての単床ブロック護岸工事も行われた。
戦後まもなくの物資不足の時代を反映してかそのほとんどは毀損し機能を失っているが,その残滓をいまなお見ることができる。

赤井川樋門の出口にはいつもある程度の流れがあり,湿地帯も広がっている。
夏の季節にはヨシ類の繁茂と合わせて,近づくのには十分な注意が必要である。

 

 

 

 

 

 
(2016.05.02)

やや離れるがここより下流の舟揚場近く(図②参照,)にしっかりとした併行水制が見られ,水制と川岸の現護岸との間にも単床ブロックの遺構が見られる。
ただしここは完全な水中なので,川の水位が十分下がっていなければ見られない。
2016.05.02にはほとんど確認できなかったが,2015.11.23,および 2015.12.09 の状況を付記する。

2015.11.23

2015.11.23

2015.11.23

2015.12.09

2016.05.02

直角水制
矢臼場に施工された護岸水制はほとんどが川岸に沿った併行水制であるが,同時に川岸からほぼ直角に突き出た水制も3ヶ所ほどで確認できる(図②参照,□印のB,C,D)。



(2016.05.02)

□□□ 5.昭和40年代に施工された単床ブロック護岸 (図②) □□□          [関連ページ
石狩河口橋は1967(昭和42)年第一期工事着工,第二期工事も竣工したのは1976(昭和51)年である。
斜張橋部分は第一期工事で施工され,左岸側主塔直下の左岸低水路護岸として単床ブロックが採用されている。
ごく一部破損してはいるものの,主塔下の岸辺に立つと整然と並んだ単床ブロックを見ることができる。
また,河口橋には下流側に歩道がついているので,左岸側主塔近辺まで歩いて下を覗くと単床ブロックの別の表情がある。

下流側の端

 

 

 

 

上流側の端

石狩河口橋の上から

2015.12.22

 

 
(2016.05.02)


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