AA |
2007.05.23 |
石狩湾新港・石狩放水路脇の市民風車・かぜるちゃん。
かぜるちゃんは,より海に近い側に立つかりんぷうとともに,2005年3月から運転が開始された。私自身はさほど興味もなく,風車が回っているんだぁ…くらいの遠くの風景として眺めているだけだった。
2007.05.20,初めてかぜるちゃんの真下から眺めてみて,その威容にしばし見とれる。以来,足しげく風車たちの写真を撮りに行くことになる。 |
AB |
2008.06.08(更新) |
花畔大橋の主塔。
写真が目的で花畔大橋に初めて出かけたのは2007.01.27。最近(この項を書いた時点)では2008.01.07。この間,何度足を運んだことか。
斜めに張られた左右11本ずつのハープ型のケーブルは,いつだってそれなりに絵になる光景(対岸,生振側から)だが,真横,の反対,真縦?,つまり道路の進行方向から撮ってみたくなった。大型トラックが頻繁に疾走する片側3車線の道を横切って,中央分離帯までたどり着くのは命からがら。
[追記] 主塔の写真は当初 2007.06.25 撮影だったが 2008.06.08 撮影に差替更新。 |
AC |
2007.06.27 |
ニセアカシア(ハリエンジュ)の散った花びらで敷き詰められた絨毯。
6月の後半になると,マメ科特有の形をした白い花びらで,樹下が埋め尽くされる。
石狩でもニセアカシアは多く植栽されている。だいぶ前のことだが,このトゲが刺さって自転車のタイヤがパンクしたことがある。
ここは花川南防風林(ななめ防風林)を横切る道道石狩手稲線の歩道。
強い風が吹くと,絨毯はたちまち消えてしまう。
[追記] ニセアカシアとかカモガヤなどの外来植物は,ススキなどとともに「はまなすの丘公園」の海浜植物群落に侵入して景観を損なう招かれざる客。石狩浜海浜植物保護センターでは,毎年これらの除去作業を行っているという。 |
AD |
2007.07.16 |
石狩川河口。
ヴィジターセンターと石狩灯台から「はまなすの丘公園」遊歩道を歩く。砂浜に出る。ハマボウフウを眺めながら,石狩川が石狩湾と出合う河口まで進むと,砂の上にたくさんのクラゲが打ち上げられている光景を見ることができる。
ごくありふれた種類の透け透けミズクラゲに違いない。大きいものでは20センチを超えるものもある。クラゲだけでなく,様々な漂着物を採集するビーチコーミングも楽しい。ささやかな収穫物:石炭,木片とクルミ。
川と海の出会う場所からの北石狩衛生センター。
[追記] 2008.07.26 制作者不詳のモニュメント。花も終わり種子熟成中のハマボウフウ。
[追記2] 2009.11.06 ときには巨大クラゲも。
[追記3] 2012.07.23 広がった河口テラス付近で近ごろ出合うもの・・・ミズクラゲ,タールボール,そして,波打際間近でも平気で群生するオニハマダイコン
[追記4] 2012.08.03 この日も点々と打ちあげられていた。経産副大臣に"たかがクラゲごとき"呼ばわりされた悲運のクラゲたち。 |
AE |
2007.07.22 |
2007.07.22,矢臼場から分岐するかつての石狩銭函道路の痕跡を自転車で辿ったみた。やがてゴミが散乱しはじめ,道はなくなり,行き止まりとなる。
2線と3線の中間あたりと思われる。
不法投棄された大量のゴミの脇でマットを敷いて,上半身ハダカの若いモンがうつ伏せに寝て甲羅干をしていた。
暑い日だった。コワかった。
[追記] 柏の保安林沿いに3線から2線方向へ300mほどで行き止まりとなるこの道も,石狩銭函間道路の名残りなのだろう。(2008.04.23) |
AF |
2007.08.22 |
オタナイ発祥之地の碑の横に並ぶ方向台
新川右岸河口近く,かつてオタネ浜と呼ばれていたあたりの砂丘(といっても草むら)の上に碑が立っている。
そこまでの道はほとんど獣道に近いもので,また乗り捨てられた車が居座っていたりして,たどり着くには探検家気分。
現在の市域でいえば小樽市ということになるが,碑文にもあるように,もともとは旧樽川村の原点でもあり,想いは断然石狩市内。
近くに,新川河口に架かる廃橋・小樽内橋がある。 |
AG |
2007.08.30 |
樽川埠頭の駐車場の北側,中央水路沿いにまっすぐ遊歩道が整備されている。「ハマナスプロムナード」というらしい。
行き止まりに立っているのがこのモニュメント。
小樽市が建てたのか,新港管理組合が建てたのか,定かではない。つまり説明板もなにもないから,なにを意味するのかも不明。さらに,タイルがかなり剥がれ落ちていてアブナイ。
冬,対岸の花畔埠頭から,樽川埠頭とモニュメントを望む(2008.01.23)。 |
AH |
2007.08.31 |
石狩川河口渡船場の跡。
石狩川河口渡船場は,1978年に120年の歴史を閉じた。
かつてこの界隈には,何隻もの廃船(川の博物館展示)が打ち捨てられていて,荒涼たる風景を醸し出していたが,いまはない。
対岸若生町側には「旧八幡町渡船場跡→」の標識が立っているが,本町側には標識も案内板もなく,寂しすぎる。
[追記] 2010.05.11 しばらくぶりに訪れると,鋼管のフェンスで囲われていた。危険だから近寄るな,ということなのだろうが,アブナイのはここだけに限らない。なんとも拒絶的かつ無味乾燥で素っ気ない。この地の説明を表示するのが先だろう。
こんな柵を作るより,存在しもしない公衆便所の看板を撤去することをおすすめしたい。
[追記2] 2013.01.09 朝陽を受ける冬の渡船場跡。
[追記3] 2015.08.14 草蒸す渡船場跡。かねて要望していた由来が記述された案内板が立った。
以前からある八幡・若生側の標識も,かなりくたびれてきているがいまなお健在。
[追記4] 2015.09.08 草が刈られた渡船場。なによりいまいましかった公衆便所の看板もなくなってとてもすっきりした(ひと月前8/14と比べるとよくわかる)。
[追記5] 2016.12.08 右岸側の渡船場跡,従来からの標識から300mほど上流の河川敷に新しい案内板が立てられていることに初めて気づいた。添えられた写真は異なるが,案内文面はまったく同一。去年の8月,左岸の案内板と同時に立てられたものと思われる。この存在にどれだけの人が気づいてくれただろうか・・・
[追記6] 2017.12.14 意外だが渡船場跡からの朝陽は初挑戦。陽の上る前の渡船場跡と,陽が上った後の渡船場跡。水制遺構も近接する。左岸では単床ブロックが施工されたもっとも下流がこのあたりだったのだろう。 |
AI |
2007.09.14 |
テングダケ。
石狩放水路脇の緑地,開発局の小型風車の近くの松の下にニョキ,ニョキ,ニョキ,ニョキ。秋には毎年見られる光景なのだろうか。
場所は違うが,新港地域の草むらをうろついていると,こんなのとか,こんなのとかにも出会う。食べられるのやら食べられないのやら。
2008.09.06 はまなすの丘公園の四阿(東屋)近くでもテングダケ発見! |
AJ |
2007.09.22 |
石狩灯台の内部の階段を激写。
2007.09.22,さけまつりの日。千人鍋でつくる石狩鍋。
そうではなくて,石狩灯台の内部が一般に公開されるという話を聞きつけ,自転車で駆けつける。風の強い日だった。
灯台の望楼から厚田方向を望む。
階段を下りるときもかなりコワい。
灯台内部については,”石狩灯台潜入”のページに詳しい。 |
AK |
2007.10.07 |
北石狩衛生センターの煙突。
八幡町から望来へと続く海沿いの道,知津狩川を渡った先に建つ。石狩浜からも遠望することもできる大きな施設である。
「燃やせるごみ」「燃やせないごみ」「燃えないごみ」「粗大ごみ」を処理しているという。(「資源物」はリサイクルプラザで処理)
敷地内に,野犬たちを慰霊するものと思われる石碑が見えた。
[追記] 2011.08.17 はまなすの丘から望むこの建物は決まりきった風景のひとつ。だが,石狩川にその影を落とす姿はとても希少で美しい。
[追記2] 2011.12.09 冬の夕焼けに浮かぶシルエット。
[追記3] 2018.02.01 左岸砂嘴からならしょっちゅう撮るのだが,あらたまって衛生センター自身を被写体とするのは珍しい。その1枚。 |
AL |
2007.10.19 |
岡﨑文吉博士考案の単床ブロック。
かつて,河床や河岸の弱い部分の浸食を防ぐために敷き並べられたもの。
陳列されている場所は,川の博物館の脇の石狩川歴史の森の中。
ここにあるのは札幌大橋下流の美登位から撤去されたものだという。
まだ護岸に現役で働いている単床ブロックは,茨戸の観音橋の周囲でみることができる。
[追記] 2009.03.05 より広範囲に施工されている単床ブロックを石狩河口橋下左岸でも発見。しかもところによっては極めて整然と保たれている。
1898年(明治31年)の大洪水の衝撃後,単床ブロックなどを用いた石狩川の治水事業が本格的に始まったのは1910年(明治43年)からである。
[追記2] 2015.11.20 茨戸川の岡﨑式単床ブロック護岸は,平成27年度土木学会選奨土木遺産に認定された。
単床ブロックを観察できるページへのリンク
1) 大正6年竣工の 石狩川護岸工事
2) 昭和10年頃施工の茨戸川(観音橋)護岸
2) 昭和20年代施工の矢臼場護岸
3) 昭和40年代施工の石狩河口橋直下
単床ブロツクに関しては,詳しくはこちら(茨戸川の岡﨑式単床ブロック護岸)を参照してください |
AM |
2007.10.28 |
石狩放水路脇の市民風車・かりんぷうの内部。
2007.10.28,かりんぷうにクレーンが寄り添っている。何の工事なのか訊ねると,冬に備えて落雷対策のチェックだという。雷は風車にとって手ごわい敵だったのだ。
入口ドアが開いていたので,頼んで中に入らせてもらった。真上を見上げる。漆黒の天国まで届くかのように,はしごが屹立している。 |
AN |
2007.11.05 |
2007.11.05,望来川沿いの道を望来ダムへと向かう。
ダムの手前で通行止めになる。赤錆が出るほど年季の入った看板である。いつから工事中なのだ?そしていつ終わるのだ?
その道路わきになぜか,もみ殻が小山のように積み上げられていた(投棄?)。
ダムへ行くのを諦めて,林道・古潭越線を走って古潭川へと抜ける。
[追記] この林道の出口は道道11号月形厚田線。(2008.03.13)
[追記2] 再び訪れたのは2008.06.14。もみ殻の山には雑草の芽が。通行止めゲートをくぐってテクテク10分ほど上ると望来ダムに到達。しかしすべて立入禁止で湖には近寄りがたし。おまけにデジカメのバッテリー切れ。帰る。
[追記3] 2008.07.02 古潭越線完走。前回は古潭川に架かる古潭1号橋を渡ってすぐ左折して231号線に向かった。今回は逆に右折し,古潭2号橋,古潭3号橋を経て,最後に厚田川に架かるやまなみ橋を渡り道道11号の出口に出た。全線舗装で気持ちがいい。
[追記4] 2008.09.20 シーズン到来。サケの溯上を見ようとやまなみ橋まで出かけた。まったく見えない。雨が降らないせいだという。ねばってねばって3,4匹確認。淋しい魚影。
[追記5] 2009.05.13 望来ダム。"国営かんがい排水事業・高岡シップ地区"で平成9年度竣工となっているが,相変わらず工事中につき立入禁止。もみ殻の山も相変わらず。
[追記6] 2010.04.10 立入禁止の札だけ真新しくなっていた。[[関連]]
[追記7] 2012.05.09 久しぶりの望来ダムは洪水吐から溢れた水が流れていた。取水塔。もみ殻の山がなくなっていて驚いた。焼いたのだろうか? |
AO |
2007.11.09 |
浜益・岡島洞窟遺跡の上の崖に眠るライオン。
2007.11.09,洞窟研究家?みたいなおじさんがいて,洞窟まわりの壁画についていろいろ説明してくれる。「ほら,巨人の足下にコロボックルが見えるでしょう…」???
2007.12.21,再びライオンに会いに行く。洞窟まわりはすでに雪。崖のライオンは確認できす。もしかしたらこのライオンは,秋の一時期にしか姿を現さないのかもしれない。
[追記] 雪が融けたら眠たそうな顔を出していた。(2008.03.13)
[追記2] 春のライオン。(2008.04.21)
[追記3] 初夏のライオン。顔にカビでも生えたか…?(2008.05.22)
[追記4] 盛夏のライオン 隠遁の術。下には落石注意の看板が。(2008.08.05)
[追記5] 久々の登場初秋のライオン (2009.09.20)
[追記6] まだ雪化粧のライオン (2010.03.24)
[追記7] 久しぶりのライオンは健在 (2013.05.01) |
AP |
2008.01.08 |
新川河口。右岸側が落ちて通行不能のオタルナイ橋。
夏に見たときより,落ちている状況がよりはっきりと分かる。
この日(2008.01.08),さらに進んでオタネ浜に出ると,轍はあるものの人っ子一人いない。これ幸いと写真を撮っていて大波を食らう。慌ててコケる。だらしなく寝そべった私の上を波が通り過ぎ,そして引き返していった。さらわれなくてよかった。
[追記] 2008.06.21 左岸からの眺め。橋の上は行き止まり(あたりまえ)。
[追記2] 2009.06.03 久々右岸から。はげしく接近。3級基準点もある。
近くには,新川掘削により切り離された,旧オタルナイ川の名残の沼がある。ちょうどキショウブの盛りで,小さな群落があちらこちらに見られた。
オタルナイ橋については,『廃橋ツアー』のページもぜひご覧ください。 |
AQ |
2007.07.24 |
浜益・千本ナラに懸けられたたくさんのしゃもじの願懸け。
国道231号から逸れて,送毛から毘砂別へと抜ける旧道の中ほどにある3本のミズナラ。樹齢800年以上。新,日本名木100選にも選定されている。
厳かな空気に包まれて,ミズナラたちの深い息遣いを感ぜずにはいられない
ここから毘砂別に向かって進むと展望台がある。雄冬岬方向の日本海や黄金山などを眺望することができる。
[追記] 2008.04.21 雪も消えた。送毛側から走る。千本ナラの威容,エゾエンゴサクの群生に見惚れる。しかし油断禁物。毘砂別の集落の手前で,無情にもイキナリ通行止!それはないべさ。
[追記2] 2009.05.26 送毛山道(毘砂別送毛線)。展望台からの浜益岳,浜益御殿,雄冬山。3本の千本ナラ (左,中,右)。
[追記3] 2011.05.09 2年ぶりの千本ナラ (左,中,右)。しゃもじは少ない。展望台へと向かう途中からの黄金山と,展望台からの浜益岳,浜益御殿,雄冬山。
[追記4] 2016.11.14 10月はじめの強風で被害を受けたという千本ナラを訪ねる。中央の木はあえなく倒れていた。根元を見るとすっかり腐食している。いずれこうなる宿命だったのだろう。北側の木は正面から見ると威風堂々。しかし横から見ると完全に添え木にもたれかかっている。いかにもアブナイ。結局まだしっかりしているのは南側の1本のみ。その根元に近づく小径以外はすべて立入禁止。800数十年生き続けてきたミズナラたち,よくガンバったね。 |
AR |
2007.09.26 |
文字通り "ISHIKARI" の大看板。
石狩湾新港中央水路に入港する船舶に,"石狩"をアピールするのだとか。どれほどの効果があるのかは定かではない。海路からのお客さんへの表札,というところか。
花畔埠頭から臨港道路・中央花畔線でやや中央埠頭へ向かって進んだ左側海岸緑地に作られている。近くには津波警報装置と,ネームプレートの落ちた警報局舎がある。
[追記] 2011.04.12 久しぶりに大看板。警報局舎のネームプレートは落ちたまま。おまけに,二重扉の外側は開いたまま。こんなんで,津波が来たとき本当に警報が発せられるのだろうか。。。 |
AS |
2008.01.20 |
結氷した茨戸川での,ワカサギ釣りのテント。
平日だった4日前はイマイチの賑わいだったが,日曜日(2008.01.20)はひしめいている。
川の博物館脇。茜橋の上から。(ついでに,夏の茜橋)
国道231号,無法駐車の列。北向き約400m,南向き約500m。
サーモンファクトリーの「ありが塔」からも眺めてみる。
[追記] 3週後の日曜日(2008.02.10)はもっと凄かった。無法駐車の列はそれぞれ倍の長さの800m,1000m。川の上は花盛り。
規模は違うものの,茨戸周辺(2/10),真勲別川(2/20),放水路水門近く,生振大橋周辺などなどでも,懲りない光景を散見できる。
[追記2] ほとんど融けている茨戸川に取り残されたこのテントはいったい…?(2008.03.19) |
AT |
2008.01.23 |
ふたたびワカサギ釣りの,氷に開けた穴。釣り糸が見える。ある人の釣果。
この日(2008.01.23)は平日にもかかわらず,幾分気温が上がって賑わっている。
川の博物館前から茨戸川の上に下りて急接近を試みる。水深は1~2m,氷の厚さは10cmくらいだという。無秩序に釣り穴が開けられていて,ほんとに大丈夫かいな?と思う。
晴天の茜橋と風車。
[追記] 後日,また覗きに行って釣り人と歓談。テントの中を写す。(2008.02.06)
[追記2] 2009年以降の情報 (2009.01.13) |
AU |
2008.02.25
関連ページ |
氷結した雄冬岬・白銀の滝を白銀歩道橋から望む。氷柱が横に広がり下部は雪で覆われ,夏の白銀の滝とは様相が異なる。滝は凍結していても,トイレはロードヒーティング,オートドア,水洗で快適。
滝は秘岬雄冬岬の突端より増毛側にあるが,ここはまだ石狩市浜益区内。もう少し北上すると集落が開ける。かつては陸の孤島と呼ばれた増毛町雄冬である。集落近くの高台に雄冬岬岩石公園と展望台があり,急な坂道を登ると日本海を一望できるが,さすがに冬は無理。
雄冬岬トンネルのひとつ手前,タンパケ覆道の出口付近の海面では,打ち付ける荒波が凍りついた岩が美しい。
[追記] 2008.03.13 周囲に氷柱は残るものの,ひと筋の滝がとうとうと流れ落ちていた。
[追記2] 2008.05.22 初夏の白銀の滝。暑寒別の雪解けのせいか流量は多い。
[追記3] 2008.12.06 白銀橋補修にともなって白銀の滝近辺は工事中。国道開通記念碑(碑文)の位置も動いたようだ。
ここから増毛方向300mほどに雄冬橋が架かる。この沢(電話下川)の上流に銀河の滝を見上げることができる。この日は風が強く,滝がひらひらたなびいていた。
[追記4] 2009.01.22 補修工事完了。新しくなった白銀橋橋名板。この沢は"弐の滝川"という名であることを再認識。ということは"壱の滝"もあるはず。どこにあるのだろう?
工事完了とともに国道開通記念碑ももとの位置に戻されたようだ。滝周辺の氷柱は成長しつつあるものの,暖冬のせいか滝そのものは変らずに流れ落ちていた。
[追記5] 2009.04.05 早春の白銀の滝。雪解けが進み水量も豊か。
タンパケ覆道北側出口の駐車場にも国道開通記念の石碑が置かれていた。すぐそばタンパケの沢に架かる橋は,北向きにはタンパケ橋,南向きにはニシン橋という2つの名を持つ珍しい橋。
[追記6] 2009.09.20 午前9時過ぎ,逆光の滝(①,②)と,午後3時過ぎ,陽を受ける滝(①,②)
[追記7] 2010.03.02 今年初めての雄冬岬。時すでに遅し。白銀の滝の氷結は緩み,流下する水量は増えつつあるようだった。そしてこちらは銀河の滝。
[追記8] 2011.01.20 ふと思いついて滝を見に行く。連日の大雪と寒波にもかかわらず,滝は流れ落ちていた。(全景,上部,違った角度から)
[追記9] 2012.01.31 いくら寒くても,1月中はすっかり氷結することはないんだね。この日の白銀の滝①,②,③,タンパケの岩。
[追記10] 2012.02.22 そろそろ完全氷結を期待した白銀の滝。氷の面積は広がったもののまだしぶとくと流れ落ちていた。銀河の滝はすっり氷結。
[追記11] 2014.02.27 2年ぶりの白銀の滝。氷結シェルターの間を潜って流れ落ちる。なお,途中の新送毛トンネル(2995m)は3/4開通とのこと。
[追記12] 2016.01.18 またまた2年ぶりの白銀の滝。勢いよく流れ落ち,完全凍結にはほど遠い。この日のお目当ては白銀の滝ではなく,タンパケの岩。かねて工事中だったガマタトンネルと雄冬岬トンネルとをそれぞれの途中から直接トンネルで繋げる総延長4216mの浜益トンネルが完成。1/19開通という。ということは,ガマタトンネルと雄冬岬トンネルとの間の丹波毛岬(こここそが雄冬岬の最先端のはず)に陸伝いに行くには今日(1/18)が最後ということになる。低気圧の接近にもかかわらず,日本海は嘘のような静けさ。これが見納めかと思うと吠える獅子岩の声が悲しげで切ない。浜益トンネル坑口の銘板はすでに取り換えられていた。(千代志別側坑口=旧・千代志別トンネル,雄冬側坑口=旧・雄冬覆道)
[追記13] 2017.04.02 久しぶりの白銀の滝。雪解けが始まっているわりには水量は少ない。
[追記14] 2018.04.02 去年と同じ日の白銀の滝。水量はかなり多い。 |
AV |
2008.03.26 |
石狩放水路河口の望洋橋。車道橋と分離された海側の人道橋中央にへばりついているこのボートは,実は石狩湾新港の展望休憩所である。が,いたるところに落書きされていて情けない。
大雨などで石狩川が増水したとき,茨戸川運河(志美運河, 昭和9年開削, 河川法上では"茨戸川")を逆流して茨戸川流域に洪水被害をもたらすのを防ぐために,新たに開削されたのが石狩放水路である。(昭和51年着工,57年完成)
通常は石狩放水路水門(昭和56年竣功)が閉じられ,運河水門(昭和56年竣功)が開けられている。石狩川増水時には運河水門を閉じ,放水路水門を開いて茨戸川の水を直接石狩湾に逃がす。
両水門の開閉を遠隔操作で制御しているのが,川の博物館(石狩放水路管理センター)である。運河水門は年に数回開閉されるが,放水路水門は平成14年以来一度も開けられたことがないという。
[追記] 2008.08.13 たまたま通りがかると,石狩放水路の様子が変。水門が開けられていた。6年振り,ということだろうか?
2008.09.06 シートで覆われた右の水門。
2009.01.01 右の水門工事は完了。続いてシートで覆われた左の水門。
2009.03.04 塗装が完了,朝日に輝く水門と,水門の日の出。 |
AW |
2008.04.05 |
ミズバショウ群生地,マクンベツ湿原に設けられた観察用の木道。2007年(平成19年)3月設置。今年(2008年)初めて訪れたのは4月5日。仏炎苞がようやくチラホラ開き始めたところだった。
木道はおよそ400m,石狩川の川岸で行き止まり。同じ木道を引き返すことになる。ハンノキ林,ヨシ原,ヤナギ林と,途中の景観はくっきりと3つに変化し,おもしろい。ミズバショウは,ハンノキ,ヤナギの林間の樹下に生育している。
木道脇にはサルノコシカケも散見される。
ヨシ原からの石狩河口橋と,行き止まりからの石狩河口橋。
[追記] 木道といえばはまなすの丘公園の遊歩道も捨てがたい。近頃老朽化が進んでいるが,この春(2008.04.20)にはほぼ修復されていた。
[追記2] 2008.04.21 夕方再訪。足元も遠景も素晴らしい。岸辺のヤナギも咲いていた。この日,対岸では野火があったようだ。
[追記3] 2008.06.03 さすがに静まり返った木道。ミズバショウも巨大化。
[追記4] 2009.03.28 早春の木道。入口に真新しい湿原の看板と駐車場には大きな説明板。5mmほどの厚さの薄氷からミズバショウたちが顔を出す。ヨシ原からと,行き止まりからの石狩河口橋。
[追記5] 2009.04.03 氷も解け,顔を出した苞も見られる。
[追記6] 2009.04.11 マクンベツ地区のゴミ拾いに集まった人たち。これだけのゴミが出て,奇麗になった木道と,そろそろ見頃なミズバショウ。
[追記7] 2011.04.12 積雪の深かった今年のマクンベツ湿原。まだシャーベット状の氷と雪に閉ざされている。水位もかなり上がっていて,ミズバショウは水の中にわずかに見られる程度。木道は雪に覆われ,倒木が行く手を阻む。ネコヤナギだけが春を謳っていた。
[追記8] 2011.04.12 一方,冬期延長工事が行われていたはまなすの丘公園の木道。ほぼ完成。
[追記9] 2011.04.21 木道の雪は消えた。倒木は相変わらず。水位が下がってミズバショウも姿を現す。開き始めた苞は2,3ヶ見られる程度。一昨年に比べるとおよそ3週間遅れか…
[追記10] 2011.04.26 ようやく3分咲きくらい。中には見事な苞も。
[追記11] 2012.04.25 雪解けが遅れたが,元気に顔を出したミズバショウ。あちこちで苞を開いている。木道行き止まりからの阿蘇岩山と,ピンネシリ,カムイシリ。
[追記12] 2012.04.28 急激な雪解けによる石狩川の増水を受け,木道もミズバショウも水没。
[追記13] 2013.04.22 この冬の積雪量は記録的だったが,雪解けは去年並み。ミズバショウたちもどうやら去年並み。でも,苞を開いているのはまだわずか。
[追記14] 2013.08.19 真夏の木道。立ち塞がる木の枝や草を掻き分けて進む。ヨシ原は歩きやすい。行き止まりはとても前が見えない。巨大化したミズバショウもいまではナサケナイ姿。やぶ蚊を払いながらも色々な湿原の草花が見られて楽しい。エゾミソハギ,タチギボウシ,エゾナミキソウ,オオマルバノホロシ(青い実,赤い実),シロネ,ドクゼリ,それに,お呼びでない外来種のオオハンゴンソウも。
[追記15] 2015.04.22 今年はミズバショウの開花も早い。すでに5分咲き。週末が見ごろか。
[追記16] 2016.04.12 まだ雪が残るも,去年よりさらに早い開花。水の中より,枯れたヨシに覆われた陽当たりの方が気持ちよく咲いている。週末が見ごろか(コレばっかし)。
[追記17] 2017.04.15 積雪,雪解けが去年並みなのでやはり開花も早い。5分咲き以上満開未満といったところ。
[追記18] 2018.04.18 去年と変わらない出足。ほとんど見ごろ。①,②,③
[追記19] 2019.04.13 去年より早めに来てみたが三分咲き。①,②。うららかな日和で見物客もそれなり。一週後が見頃でしょう。
[追記20] 2020.04.05 去年よりさらに早めに来てみたがやっぱり三分咲き。①,②,③。やはり極端に雪が少ない冬で,雪解けが早かったせいでしょう。
[追記21] 2021.04.26 今年はボンヤリしていて,すでに見ごろであることを新聞で知る。
慌てて行った 4/15 には確かに7,8分咲き。①,②。 その後数日雨が続き石狩川が増水。4/19 には半冠水状態で溺れそう。③,④。 |
AX |
2008.04.21 |
旧浜益村川下・史跡荘内藩ハママシケ陣屋跡に立つ標柱。
幕末,ロシアの南下に危機感を抱いた幕府は,1859年(安政6年),東北6藩(仙台,秋田,荘内,盛岡,弘前,会津)に蝦夷地を分与し,開拓と警備の任に当たらせた。
浜益から天塩までの警備の命を受けた荘内藩は,1860年(万延元年)ハママシケにおよそ200の人員を派遣,警備・開墾に当たらせた。領地経営の拠点として構築されたのが陣屋*である。1867年(慶応3年),大政奉還により幕府が倒れ薩長との戦いが切迫し,翌1868年(慶応4年/明治元年),荘内藩は武士,農民700人以上を急遽引き上げることになり陣屋は放棄される。
現在大手門(後ろから)のみ復元され,長屋跡などの標柱が立てられている。
陣屋跡への途中に川下八幡神社がある。キバナノアマナが咲き乱れる境内には,鳥海山,湯殿山,羽黒山の荘内(庄内)ゆかりの霊山の名を刻んだ石碑がある。陣屋で暮らした人々の望郷の思いが偲ばれる。
* : 浜益村教育委員会発行"史跡荘内藩ハママシケ陣屋跡"より
[追記] 2008.05.23 浜益川(古い絵図**では黄金川とある)から大金を投じて掘削したので千両堀**と名がついたともいわれる運河も,いまはほとんど原形を留めない(下のほうは灌漑用水路として健在?)
** : はまます郷土資料館所蔵展示物より (説明文)
[追記2] 2011.04.09 しばらくぶりに訪れると,霊山の石碑は台座の上に鎮座していた(礎石の碑文)。大手門にはまだ雪が残る。
[追記3] 2012.10.20 いきいきウオーキングin浜益に参加した(畏れ多くも,厚田・浜益までの車中ガイドまでしたのだ)。浜益川右岸堤防上をテクテク歩いていたら,「千両堀」の名が遺された樋門を発見した。なんとなく嬉しい。
[追記4] 2016.11.14 一昨年来た時には大手門から先は深い薮だった。今回は様相が一変,ササ刈りされた散策路が奉行所まで整備されていた。随所にユニークな案内矢印も。たとえば,奉行所・大手門,石橋まで7.0m,奉行所まで42m,正面玄関付近?,井戸まで10m,(斜め下を指した)井戸,など。指された先には湧水風の水溜りがあるのだが,少し離れて四角い井戸風の枠もありかなり深い。どちらが井戸なのだろう?近くに”奉行長屋跡”の標柱も。そういえばかつて立っていた”足軽長屋跡”,”長屋跡”などの標柱は見当たらない。朽ちて倒れたのだろうか。”石橋”の下には流れがあるが,千両堀ではなさそうだ。大手門の脇には陣屋見取図も貼られていた。地元研究会の保存にかける意気込みも伝わってくる。
[追記5] 2021.08.07 大手門,建て替えられる⇒Topics参照 |
AY |
2008.04.29
(動くGIF) |
八の沢鉱業所跡の石油滲出現場。
高岡から五の沢林道に入る。五の沢池を樹間に見ながら進む。やがて石狩油田八の沢鉱業所跡に到達する(記念碑と碑文)。ここでは1903年(明治36年)以来1960年(昭和35年)まで石油を採掘していたという。1948年(昭和23年)当時の見取図が掲げられている(去年見た見取図よりいつの間にかあかぬけしている)。八の沢小学校跡の門柱石碑も並ぶ。崖をよじ登ると,かつて住宅があったと思われる原っぱにキクザキイチゲの群落。林道をさらに奥に進むと伊夜日子神社跡の石碑がある。それより少し手前に純石狩産原油がいまでも滲出している現場がある。それはボコボコと音をたて,湧き出しているといった方がむしろ正しい。標本として採取してきたのはいうまでもない。
なお五の沢林道を進むと当別町に入り弁華別に抜ける。
いしかり砂丘の風資料館には石狩油田の模型が展示されている。本物みたいに動くからすごい。
[追記] 札幌・中島公園にも伊夜日子神社が現存。いずれも,新潟・弥彦神社の天之香具山命を分祀している。天之香具山命は石油開発の守護神でもあるとのことで,うなずけるものがある。(2008.06.17)
[追記2] 札幌拓北公園に三角点"伊夜日子"が存在することを知った。どうやらかつて「拓北伊夜日子神社」があって,その地との関わりがあるのだろう。いまは篠路神社に合祀されていると由緒にある。さほど遠くない茨戸地区でも石油が採掘されていた歴史があるが,なにかしら関連があるのだろうか? (2008.09.02)
[追記3] 2009.05.13 久しぶりに林道五の沢線に入った。5/24は通行止とか。"スポーツ競技会"じゃなんのことやら分からない。鉱業所跡を見て,原油湧出現場へ向かう。迫力を増したか?
[追記4] 2010.07.17 1年ぶりの五の沢林道は両側からイタドリなどがせり出し道幅が半分ほどになっているところもある。原油地点も草は刈られていず伸び放題。背丈ほどある草むらを掻き分けてたどりつく。心なしか元気がない。
[追記5] 2010.06.25 恒例?1年ぶりの油田跡。知る人ぞ知るで,しっかりと踏み分け道。滲出現場も相変わらず。
[追記6] 2012.05.09 春の油田跡。見晴し良好,元気。
[追記7] 2012.08.08 夏の油田跡。深いヤブの中,そこそこ元気。
[追記8] 2017年の油田跡⇒Topics |
AZ |
2008.05.01 |
厚田公園展望台"恋人の聖地"のフェンスに取り付けられた南京錠。
個人的には,千本ナラのしゃもじの願懸け同様,よく分からない。
厚田資料室わきのだらだら坂を,両側たくさんの句碑,歌碑に出迎えられながら上る。頂上にごつい展望台があり,誓いの鐘も。ほかに,三等三角点"厚田"もある(標高86.43m)。
しかしながら,目の前にふてぶてしく居座るスキー場リフトの支柱,眼下には意義不明の人工海岸。これらは恋人たちの目にも興ざめではないのか?
ishikari あいロードプロジェクトなる企画が進行中ということで,ここ"恋人の聖地"とならんで,浜益ふるさと塾(適沢コミュニティセンター)裏手,ふるさと公園の"ラバーズ・オーシャン"も売込み中!
[追記] 2008.08.05 適沢コミュニティセンターの案内看板には"浜益ふるさと塾"の文字はなかった。玄関も鎖が巻きつけられ使われている気配はない。石狩と合併して"ふるさとの創生"はどこへ行くのだろうか。
唐突ながら,ふるさと公園眼下の磯で泳ぐ人。
[追記2] 2009.04.05 ふるさと公園から望む愛冠岬のぼやけた馬雪(若干補正処理済)。
[追記3] 2009.04.17 1年ぶりの恋人の聖地。リフトの支柱が撤去され,コンクリートの基礎だけが残されていた。相変わらずの人工海岸はともかくとして眺望はよくなった。南京錠のフェンスも更新されたようだ。
[追記4] 2010.02.13 厚田公園での『石狩冬まつり』今年の目玉は全長は315mの雪のすべり台。恋人の聖地の南京錠フェンスは解説つきバージョン。展望台からまつり会場を見下ろす。
[追記5] 2010.03.24 雪に閉ざされたふるさと公園。モニュメントのまわりには足跡もない。馬雪も一週間ほど早すぎか…
[追記6] 2010.04.26 夕陽を追いかけてモニュメントまで来た。馬雪は子馬になっていた。
[追記7] 2010.07.31 適沢コミュニティセンターは"cafe gull"に。案内看板も模様替え。
メニューの品揃えは寂しいが,浜益のかーさんたちの手作り感がいい。
[追記8] 2011.04.09 期待して来たふるさと公園。しかし馬雪はまだメタボ。単なる雪の塊。
[追記9] 2012.04.19 懲りずにふるさと公園。去年より馬らしいが,前足の下あたりがイマイチすっきりしない。
[追記10] 2015.03.30 3年ぶり,まだ閉鎖中のカフェガルからの馬雪。いつもならまだ肥満馬のはずが,雪解けが早い今年は消滅寸前か…それよりなにより,愛冠岬はここからほぼ真南の方向。12時半ころ来たのではまるで逆光。馬雪を眺めるなら朝か夕方がおすすめです。
[追記11] 2016.03.18 カフェガルからの馬雪。さすがに早過ぎとは思ったが,メタボ症状は2011.04.09並み。やはり20日ほど雪解けは早いということか。3/25ころが見頃か?
[追記12] 2017.04.02 この時期恒例,ふるさと公園からの愛冠岬。馬雪は 今年もメタボ。資料館への坂道に設置された壁画。
[追記13] 2018.04.02 去年と同じ日。メタボでもなく痩せすぎでもなく,これまで見た馬雪の中ではもっとも均整のとれた,精悍な姿に見えた。惜しむらくはちょうどお昼過ぎの逆光で霞んでしまっていたこと。残念。去年9月の大雨で被災した郷土資料館は修復工事が始まったようだ。浜益港北防波堤から郷土資料館を望む。右上高台にふるさと公園とカフェガルが見える。
[追記14] 2018.04.03 ふるさと公園(ハートのモニュメントの脇にあった街灯の支柱がないのが気になる)。肥満の馬雪。4日後再度訪れる。まだ絞れ切れていないがまずまず馬らしい。天空に飛び立たんとする気概は感じられる。
[追記15] 2021.08.06 カフェガルは2018年9月閉業。その後にカフェ Cafest が4月にopenしたという。 |
BA |
2008.05.08 |
石狩斎場に隣接する親船墓地駐車場緑地にある電子基準点"石狩"。
国土地理院により設置されている高さ5mのステンレス製のピラー(設置年度により形状が異なる)で,頂部のアンテナでGPS衛星からの電波を常時受信し,得られた情報を各方面での利用に供しているという。地表の基礎部には円形の付属金属標も見られる。
近くの墓地内高台には,二等三角点"石狩"(標高10.14m)が置かれているが,ヤブの中,発見するのは大変だった(^^;。
石狩市域の電子基準点は,ほかに厚田,浜益にも設置されている。 |
BB |
2008.05.29 |
石狩浜の砂丘にできた巨大なクレーター①。
捨てられているタイヤの大きさと比較してみるとよく分かるが,深さは5mにも及ぶだろうか。底まで下りて見上げてみる。
こんな穴ぼこが自然にできたわけでもないし,隕石が落下したわけでもない。
愚かものたちによる地球への乱暴狼藉の痕跡である。
四輪駆動車,サンドバギー,オフロードバイクなどの走行により,裸地になり島状になり,やがてすり鉢状になった大きな穴は数十ヶ所確認されている。車両進入禁止の柵やロープを壊したり切ったりして侵入する車が,いまでも後を絶たない。
石狩浜海浜植物保護センターでは自然の回復,保全に取り組んでいるが,こうして破壊された植生は,景観は,はたして元に戻るのだろうか。
[追記] 2008.09.06 ①からたかだか3ヶ月。クレーターの中の島が崩れてきているのが分かる。近くのキタキツネの巣穴もいつまでもつか…?
[追記2] 2010.09.16 その後のクレーター。侵入する車両はいまだに後を絶たない。
[追記3] 2011.04.29 さらに崩れているクレーターの中の島。
[追記4] 2012.07.13 まだ性懲りもなく走り回る輩もいるようだ。中の島はもはや風前の灯。
[追記5] 2012.07.22 挙句の果て駆け上ろうとするバカモノの轍の跡。
[追記6] 2013.02.15 初めての真冬のクレーター。この冬,あそびーちの南からおよそ750m,冬の乱暴モノの暴波浪が砂丘を喰いちぎった。親船墓地裏から砂浜に続く道は完全に崩落している。
[追記7] 2016.06.07 3年ぶりのクレーター。どういうふうに形が変化したのかワケがわからない。砂浜に続く道は人なら自由に出入りできる。浜崖の側面にはショウドウツバメが営巣していた。
[追記8] 2021.07.19 植生は徐々に回復しつつあるものの…⇒Topics参照 |
BC |
2008.06.02
(動くGIF)
(2008.06.28のGIF) |
石狩放水路のエアレーション。
石狩放水路水門は通常は閉じられている(この6,7年開けられたことがない)ので,流れが滞り酸素不足となる。そのため強制的に河床に空気を送り込むエアレーション設備が設置され,好気性バクテリアを活性化することによる水質の浄化がはかられている。
エアレーション設備は放水路水門近く,第二放水路橋近く,茜橋近くの3ヶ所。
稼動するのは6月から9月。5月29日に眺めに行ったが動いていなかった。
エアレーションの動力源として期待された小型風車は,時に思い出したように動いていることはあっても,この日は予想通り止まっていた。
もうひとつの水質浄化といえば紅葉山公園。 |
BD |
2008.06.03 |
石狩河口橋の主塔。
石狩河口橋は石狩川水面上の斜張橋と,その両側の河川敷部分に桁橋が連結合成されている。
斜張橋の主塔は2本。ケーブルの形式は放射型。
1976年(昭和51年)10月完成。1978年3月,石狩川河口の渡船に終止符が打たれた。
全長1412.7m。長い!主塔の真下から見上げる。大型車が通ると激しく揺れる。川面を渡る風はひときわ強い。コワい。
秋,志美の田んぼから遠望する。 |
BE |
2008.07.12 |
2007年9月に立ち上がった第3の市民風車の内部。
これまで何度かトラブルがあった(2008.05.13)ようだが,2008.07.12,名前がついてお披露目の催しが行われた(舞台裏)。物見高いワレワレ,つまり女房と私は当然にもママチャリで駆けつけた。(雨に打たれて爽やかに濡れて帰った)
さてその名は「かなみちゃん」。「かぜるちゃん」,「かりんぷう」に続いてまたもやコダワリの『か』。
内部も見学できるとあって早速覗かせてもらった。初めてエレベータを装備。2人乗りで,てっぺんまでおよそ5分かかるとか。さすがに乗せてはもらえず残念。仕方ないので,エレベータの上とか,さらにその上を覗いてみたりとか。。。
かなみちゃんも真下から見上げてみる。
3機並んだ市民風車(2008.06.02) |
BF |
2008.08.05 |
なんの変哲もない公衆トイレである。しかしピカピカ。
近ごろはどこに行ってもトイレが奇麗であることが観光地の絶対条件。でも,である。デコボコ林道(たまたま居合わせた森林管理局の方の話では,この地区の国有林林道で一般に開放されているのはここだけとのこと)の行き止まりの山奥にあるにしては不釣合いなほど,完璧な水洗トイレなのである。
浜益・黄金山登山道入口の休憩所。
管理しているのは黄金山岳会。並の努力ではこうはならない。さる会合でお会いした事務局長氏の,屈託ない笑顔を思い浮かべる。
この日は朝から浜益の民有林林道を訪ねた。幌床丹線,千代志別線,浜益実田線,竜神沢線など。ぐるっと廻って気がつけば振り出しに戻っていたり,改修工事中とか草茫々とかで引き返したり。これで帰るのは,いかにも不完全燃焼。
真夏日の完全燃焼を求めて黄金山を目指す。国道451号実田橋(新橋架け替え工事中)を渡ってすぐ左折。案内標識があってここからおよそ4.2km。1時過ぎ登山口(案内図)。確認だけのつもりで新道・旧道の分岐点まで登る。すでに熱中症寸前。水場で渇きを癒して生き返る。登頂の日は果たして来るのか。
帰路,樹齢1500年と推定される"黄金山のイチイ"を訪ねる。圧倒的な存在感。下手な写真で,その迫力を伝えることは難しいと悟った。
[追記] 2008.08.26 再び吸い寄せられるようにイチイの雄姿を見に行く。やっぱり凄い。凄いといえば,黄金山登山道入口休憩所のトイレも相変わらず凄い。チェック表もあるのだ。
[追記2] 2009.09.11 2年越し念願の黄金山,夫婦仲良く?発登頂! 新道ササ原から見上げる岩峰。急な斜面の命綱。再度の出会いの分岐点。這いずって進む両側絶壁の岩尾根。いったん下り再度よじ登って主峰。頂上。三角点。浜益川と日本海。増毛山地は雲の中。上りはきつくて,下りはつらい。
[追記3] 2010.03.02 冬の黄金山
[追記4] 2011.05.09 登山道入口へと向かう。ちょうど中ほど,兼平沢に架かる春香橋を渡ってすぐ,道路は雪に閉ざされていた。おととしの5/6には登山道入口にもまったく雪は残っていなかったのだが…
[追記5] 2012.07.14 いち年振りに登山口への林道を走る。相変わらずトイレは掃除が行き届いている。渡辺さん,本当にご苦労さま。もちろん,迫力のイチイにも再会する。
[追記6] 2013.05.01 登山口へと向かう林道は,入口から残雪が進入を拒む。19日が山開きというが,それまでに消えるのだろうか…
[追記7] 2021.08.06 久しぶりに行ってみると,登山口へと向かう林道は森林管理局により車も人も立入禁止。来年3月末まで間伐作業が行われるのだという。 |
BG |
2008.08.29 |
花畔団地(花川北)北西縁のポプラ並木。晩秋。早春。
石狩手稲通り沿い排水の団地側に,団地造成開始とともに植栽されたものと思われる。道路の反対側から撮る(手前が石狩手稲通りのイタヤカエデ並木と背の低いモンタナマツ,後ろの高木がポプラ並木)。
ポプラは花川通りから中央通りをまたいで花川北防風林までのおよそ1.1km。防風林以北は北陽通りをはさんでイタヤカエデがおよそ0.6km植えられている。
もともとは冬の季節風対策,あるいは幹線道路からの騒音対策が目的だったと思われるが,ポプラの樹間には踏み分け道ができて,格好の散策路となっている。(花川北防風林で行き止まり)
中央通りのポプラの近くには,金属標の二等水準点(標高6.1m)が設置されている。区域界も見つかる。区域界は歩道を歩いていると珍しくないが,これほどきちんとした水準点を見つけられるのは嬉しい。
なお,石狩市の並木(街路樹)についてはこちらをどうぞ! |
BH |
2008.06.02 |
紅葉山公園の池に浮かべられた筏。
これらの筏にはノハナショウブ,タチギボウシなど,主に石狩浜に育つ湿性植物が植え込まれている。水質浄化実験の一環として,これらの植物が池から養分(リン,窒素など)を吸い上げて固定する能力を利用しているとのこと。石狩市環境課,北海道工業大学,石狩浜海浜植物保護センターなどが協力して進めている。ときどきカモたちのねぐらや餌になったりするとか…
2008.09.04 筏は増えていて,大きな筏は花盛りだった。
公園内には小高い山もある。地形的には花畔砂堤列。かつては農地(水田)だったわけで,紅葉山砂丘とは無縁。
花川地区一帯を宅地化するにいたった経緯を記した開発記念碑(碑文)が公園内に建つ。その近くには噴水も。
なお,花畔界隈の田んぼについてはこちら『「花畔」にこだわる旅』をどうぞ!
[追記] 2009.09.18 今年の筏は石狩浜海浜植物保護センターのみの設置とか。すっかりカモたちの憩いの場と化していた。
[追記2] 2013.08.05 久しぶりの池。保護センターによる湿性植物の筏は3枚。その1,その2,その3。ノハナショウブは花が終り,エゾミソハギとクサレダマはいまが盛り。ナガボノシロワレモコウ,サワギキョウはこれから…
[追記3] 2013.12.08 どうやらこの池に湿性植物の筏が浮かぶのも今年が最後だという。
[追記4] 2015.01.12 筏が消えて夏も淋しくなった。いつもより雪深い冬,幾人かの踏みつけ道をたよりに公園を歩く。たわわに実を付けたナナカマドが唯一のいろどりを添える。 |
BI |
2008.09.06 |
海浜植生回復のモニタリング調査区。[[ BBに密接に関連 ]]
四輪バギーなどのオフロード車で破壊された石狩砂丘は,はたして蘇生可能なのだろうか。
それを確認するため,石狩浜海浜植物保護センターと北海道大学花卉・緑地計画学研究室とが共同しての調査。対象地区に柵をめぐらしオフロード車の侵入を排除。さらに部分的に砂を埋め戻したり,風防ネットを張ったりして,さまざまな角度からの植生回復データを得ようとしているらしい。
別の場所では,立入禁止地区内に侵入したバギーなどの走行量を終日カウントしている。
しかもこれらの調査は10年間にも及ぶという。
綺麗な花が咲くから保存しようということではない。見ようによっては雑草とも思えるような植生の全体が砂を固定し砂漠化を防いでいる。だから可憐な草花も生育する。そうした海浜の景観を総体として100年,200年後まで守り続けていく必要があるのだろう。
[追記] 2010.09.16 調査開始後3年。車両の侵入を阻止することで,ある程度植生が回復。微かに光明が見える。
[追記2] 2021.07.19 ほとんど海浜植生に覆われ,周囲との区別がつかないくらいに回復していると思われる。しかし,バギー車などの走行で傷められた地表の凹凸が回復するほどに飛砂の堆積が進むには,なおかなりの年数が必要とされるのだろう。
それにしても,調査が終了したのだとしたら,柵として設置された単管パイプとかネットなどは景観保全上も撤去されてしかるべきだろう。 |
BJ |
2008.09.22 |
発寒川遊水池の警報表示装置。(たとえばこんな具合: 1, 2, 3)
南花畔通り,花川通り,新琴似第5横通りと発寒川に囲まれた低地。大雨で発寒川の水位が上がったとき,ここに洪水を逃がして貯めておき,おさまってから川に流す。堤防の一部を低くしてここから洪水が流れ込むようにした越流堤(工事標識)と,貯まった水を流すための樋門(名板),さらに水位測定局(名板)などで構成されている。音声放送とサイレンによる警報装置も2ヶ所にある。
南花畔通りを隔てて隣接する紅南公園の砂丘上から遊水地を眺める。遊水地に水が入る頻度は4年に1度程度と想定(予想図)され,洪水時以外は現状の環境をそのままに守っていくとのことで,草茫々。その中に簡易舗装された小径が作られていて,犬を散歩させていたり,自転車で走ったり(それはワレワレ)している姿がたまに散見される。
ここはまた,紅葉山49号遺跡の発掘現場でもある。発掘調査は1995年(平成7年)に開始され2002年(平成14年)一段落。それを待って越流堤が2005年(平成17年)に完成。
49号遺跡の出土品の数々は,砂丘の風資料館で目にすることができる。しかし,ここが49号遺跡の発掘現場であることを示すモニュメントはなぜか一切ない。
花川南公園に設置されている33号遺跡の説明版のように,風化された姿を晒しつづけるのも寂しいものだが。
また,8月末まで行われていた花川南5条橋架け替え工事に伴う遺跡発掘作業では成果は見られたのだろうか? |
BK |
2008.10.13 |
浜益川第一頭首工
頭首工とは,河川から農業用水を取水するために設けられた堰である。
この頭首工は浜益川に沿って国道451号を東進すると,黄金山への林道の直前に架かる実田橋の手前で左側に見ることができる。現在の頭首工は2004年(平成16年)完成というだけに新しい。近くに先代の記念碑もあって,1975年(昭和48年)完成とのことである。
第一より下流に第二もある。国道からは,実田浜中橋を渡り浜益温泉を過ぎていくらか進むと右手に見られる。
2008.10.29 あらためて浜益川第二頭首工を訪ねた。右岸からと,左岸からそれぞれ近づいて見る。ここからの黄金山の眺望もなかなかに捨てがたい。おりしも浅瀬では,溯上してきたサケたちが産卵に飛び跳ねる姿を観察することができた。
浜益川では例年サケ有効利用調査の名で一定期間登録者に釣獲が認められているが,実田浜中橋より上流では禁止されている。
国道沿いには駐車公園,浜益温泉,パークゴルフ場,老人福祉施設などが整備されている。第二頭首工近辺も親水公園化する計画がかつてあったらしいが進んでいない。
浜益温泉は好きな温泉のひとつだが,10月20日から改修工事のため露天風呂が閉鎖になっていて残念だった。
[追記] 2009.01.22 冬景色の第一頭首工。
[追記2] 2009.04.05 リニューアルされた浜益温泉。日曜だったせいか,大混雑。
[追記3] 2009.05.13 厚田川にも頭首工があるのを知って訪れた。道道11号山側に林道上発足線の入口があって,ちょうどその反対側の谷側にある。固定堰で,取水路に小さな水門があるだけ。道道からはほとんど見えない。季節柄水量豊富。近くでは田植え中。欄干のない橋もある。
[追記4] 2012.10月 浜益川第二頭首工。サケ・ウォッチングに久しぶりに訪れた。左岸から(2日)は,黄金山が美しい。右岸から(20日)は,背後の擂鉢山が色づきかけている。左岸には記念碑があるのも発見。 |
BL |
起点
終点
2009.04.07(更新) |
「石狩川護岸工事起点」碑(解説) および 「石狩川護岸工事終点」碑(解説)。
茨戸大橋から花畔大橋へ向けて,茨戸川右岸堤防上を進むと出会う。現在の碑は1992年(平成4年)に復元したもの。
1989年(平成1年)作業中に偶然発見された花崗岩づくりの原標は,単床ブロック(ヨーカンブロック)が敷き詰められた台座の中央に埋め込まれて保存されている。
近くにはカワセミ営巣ブロックが設置され,望遠レンズで待ち構える人々の姿も散見される。また堤防上からは花畔大橋を縦,横,さまざまな角度で遠望できる。
工事は1916年(大正5年)着手,1917年(大正6年)竣功。蛇行したままの石狩川の流路をそのまま残して柔構造のヨーカンブロックで護岸するという,岡崎文吉の自然主義治水哲学を具現化したものである。
皮肉にも竣功の1917年に,岡崎の哲学とは相反するハードな治水技法(岡崎いうところの「極端主義」)に基づいて,蛇行部を強引に直線化する捷水路(ショートカット)方式が採用され,岡崎の去った1918年(大正7年)から着工される。
1931年(昭和6年)には生振捷水路,1933年には当別捷水路が完成,通水されることにより,茨戸川は石狩川本流から切り離される。
生振捷水路は2002年(平成14年)に土木学会が土木遺産に認定。真勲別川近くの生振8線石狩川堤防上(2007年の看板)に,「石狩川治水発祥の地」碑,殉職碑とともに「土木遺産認定」碑が建つ。
(2009.02.21 記) |
BM |
2008.11.13 |
カシワの枯れ葉がフワリ。(花畔埠頭前の保安林脇)
不思議といえば不思議な樹である。冬になっても大きな褐色の葉をほとんど落とさない。厳しい風雪から冬芽を護っているのだという。
どの木々も緑に装っている季節,遠目にカシワを見分けるのは難しい。だが真冬には一目瞭然。
砂丘の天然林のみでなく,何気なく周囲を見るだけで石狩には多くのカシワがあることが分かる。
石狩市の木(合併前はナナカマドだった)のいち年を追ってみた。
新芽・・・まだ堅い(4/20),伸びてきた(4/29),開き始める(5/7)
花・・・咲き始めた雄花(5/10),垂れ下がる(5/23),並べてみた,目立たない雌花?(6/1)
実・・・まだ殻斗(ぼうし)の中で隠れんぼのドングリ(7/28),青二才のドングリ(9/6),イッチョマエのドングリ(10/12)
落葉・・・ほとんどの樹木が裸木となった時期,雪の上に見る落ち葉もカシワだけだ。
朝陽を受けて輝くカシワ(2008.01.30 石狩放水路水門脇))
カシワを眺めながらの余禄。タラノキよりかなりマイナーかもしれないが,ところによってはハリギリも見つけられる。トゲはコワいがこの新芽も結構いける。美味しい。(堅い芽,伸びてきた芽,開き始めた芽)
ドングリといえば,去年旅先の伊勢でこんなのを拾った。殻斗が3裂している。スダジイというらしい。
(2009.02.23 記) |
BN |
2009.04.17
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かつての厚田油田跡地,無煙浜に浸出する石油。
八幡町から望来へと続く海沿いの道路(知津狩川に架かる橋は車両通行禁止)を進むと,無煙浜の崖側に厚田油田の採掘跡が残されている(火気厳禁)。現在はフェンスで囲まれている上に,U字ブロックがかぶせられているのでマンホールを覗くことはできない。
しかしこのあたり一帯は微かに石油の臭いが漂い,原油の滲出で黒ずんだ土地,油膜が広がる湿地などが散見される。そうした中にガス,石油の湧き出し現場もある。
近くには旧知津狩川が流れ?水量もそこそこあるのだが,不思議なことにこの川,河口が閉じている。ときどき大きな波が打ち寄せたときにだけ海に繋がる。
[追記] 2009.05.10 再訪。少し元気がないかな? これはデストロイヤーだろうか。
[追記2] 2009.06.30 全体にかなり干上がった感じ。ポコポコ湧き出しているが春のような元気はない。
旧知津狩川河口,春には海に直角に近かったのが,砂嘴が長く伸びている。超ミニモデルながら,石狩川河口砂嘴の発達過程を思わせるものがある。
[追記3] 2009.09.14 いくぶん元気回復。近くに転がっているのは大型動物の白骨か?
[追記4] 2011.05.15 この日滲出現場脇に,シカと思われる足跡発見。こんなところを歩いたら,足が油臭くなっただろうに…近くには白花も混じったキショウブが。あるいは,キショウブとセンダイハギが隣接する群落も。
[追記5] 2012.06.28 すっかり干上がっていた。いよいよ枯渇したのだろうか?
[追記6] 2012.07.14 やや復活!? 前日の雨水が溜まりガスが湧き出しているのが確認できる。
[追記7] 2013.05.01 融雪後で周辺の水位がまだかなり高い。ガスの湧き出しも弱々しい。
[追記8] 2013.10.18 台風26号崩れの雨の後での湧き出し。
[追記9] 2014.11.05 今年は初めて。元気ないぞ。この日,旧知津狩川河口は完全に塞がっていた。
[追記10] 2019.03.13 そういえば2015.09.03以来ご無沙汰していた。市道が除雪され開通していたのを機に3年半ぶりに訪ねてみた。湧出現場はまだ雪に閉ざされていたが,覆う雪は淡い褐色に染まっていた。崖下の採掘跡遺構もフェンスの上部が姿を現していた。
[追記11] 2019.06.03 あいかわらず人目を引く湧出現場。こころなしか元気がない。
[追記12] 2019.07.18 ウンともスンともいわない。ついに力尽きたのかと思われた。ところがどっこいその6日後(7/24),数ヶ所からピョコピョコとガスが湧出するのが確認された。付き合ってくれてありがとう。
[追記13] 2020.03.25 このあたりも雪解けが早かったとみえて,元気にボコボコ。
[追記14] 2021.06.19 アプローチの道路がひどい悪路で入れなかったが,今年初めて接近。数ヶ所でポコボコいっているが,なんとなく元気はない。 |
BO |
2009.04.17 |
厚田漁港に隣接する厚田海浜プール。(1年前)
人工海浜である。口を開けば予算がないという行政(この場合は道なのか,開発局なのか?)が,巨費を投じてこんなものを造ったコンセプトが理解できない。海に海を造ってどうする?
というのが率直な疑問。天然の海水浴場・厚田ビーチセンターがすぐ近くにあるというのに。ま,新しもの好きの皆さんにはウケるのかもしれないが。
気を取り直して突堤から高台を見上げる。山頂に厚田公園展望台,その右下に見えるのが観光案内所「あいロード夕日の丘」。この翌日がオープンということで中には入れず。真新しい石碑も建てられたばかり(丸文字がちょっとねぇ…)。裏には地図と説明文。愛称は公募により決定。
去年までこの地にあった駐車場のトイレはひどかったけれど,ここはきわめて快適。多目的トイレも充実している。
夕日の丘の海に面する窓に映る夕日と,直接眺める夕日。
[追記] 2009.05.06 あいロード夕日の丘オープン後初めて店内を覗く。かけそばが旨かった。
にしん街道・厚田区(解説)が立つ。兄貴分のにしん街道・浜益区(解説)も並べておこう。
ついでに人工海浜も。
[追記2] 2009.06.30 厚田ビーチセンター(上から見る)はオープン直前を控えきれいになっていた。
[追記3] 2009.08.01 この夏は海水浴場泣かせの不順な天候続き。久しぶりに晴れ間も出て夏日の土曜日のビーチセンターと人工海浜。うーむ,淋しい。
[追記4] 2009.09.20 シルバーウィーク快晴の2日目,夕日の丘にはライダーたちがぞろり。人工海浜の汀線はじわりと後退。砂を掻き出さなくては…
[追記5] 2010.02.13 『石狩冬まつり』の日の人工海浜。厚田公園展望台から。
[追記6] 2010.07.31 人工海浜も形がボヨヨ~ンと変わった(クビレがなくなってきた)。
[追記7] 2011.11.06 夕日の丘の隅に新顔の石碑(漁師の礎 海難慰霊碑)が…(碑文)。それにしても,揮毫はまたまた市長。ま,大臣や国会議員でないだけ少しはマシか。この日の厚田公園展望台からの人工海浜。ここはもともと砂浜ではなかったので,漂砂で埋まる心配はないのだという。
[追記8] 2013.10.14 濃昼峠からの遠望。 |
BP |
2009.05.06 |
復旧が始まった増毛山道入口の梯子。
幌神社の駐車場の崖にかけられている。
梯子を上がるとのっけからきつい登りがありいささかビビるも,その後はさほどの勾配ではなく,ほぼまっすぐな登り道。広く歩きやすく切り拓かれている。保存に動き出された方々の情熱とご苦労に頭が下がる。
のんびり歩いて30分。およそ800mほどで広い道が途絶え,かき分け道風になる。この日はとりあえずここまでで引き返すことに。
旧道は一気に浜益御殿の頂上(1037.8860m)を目指すことになるのだが,いま現在どこまで拓かれているのだろうか。まぁ拓かれたとしても,自分の足腰ではとても無理・・・
登り口からおよそ500mほどのところに一等水準点8457(標高113.5429m, 埋石明治40年7月)が保存されていて,かつては立派な国道であったことが偲ばれる。
社の前から幌の町並みを見下ろす。浜益から北ではもっとも大きな集落である。
高台にある幌灯台を幌川河口から望む。縞模様は似ているが石狩灯台より風格がある。
[追記] 2009.05.20 市民図書館で増毛山道・特別展示が催されていた。なかでも航空写真は圧巻。先日歩いた部分を含む幌側のごく一部。
[追記2] 2009.06.17 増毛町別苅側に立てられている山道入口の史跡標柱。裏面。しかし,実際の山道は藪の中。情けなくも分からなかった。
[追記3] 2009.09.20 再び別苅側。この先2kmほど刈り拓かれたとのこと。しかし立入禁止となっているので断念。
幌側でも神社駐車場に上がる道に鎖が。山道入口周辺にも人が行き来した気配が感じられず淋しい。 |
BQ |
2009.05.10 |
石狩川右岸河口,およそ500mにわたって湾曲して突き出た導流堤。
左岸の砂嘴は北に伸び続け現在の河口先端部(導流堤を遠望)は,1892年(明治25年)に建設された石狩灯台からおよそ1300mも離れている。そこはいま「はまなすの丘公園」。左岸の砂嘴が伸びた分だけ右岸は浸食され続けたということだろう。
海(日本海,石狩湾)からすると,大河・石狩川もちっぽけな流れ。石狩川の流れる力も潮流には抗いがたく押される一方で,年々砂嘴が発達し続けたに違いない。けれど,石狩川のショートカットが推進された昭和初期以降,砂嘴の成長速度は急に鈍くなる。速くなった川の流れの勢いが,潮流に一矢を報いた結果だったのだろうか。
導流堤は1973年(昭和48年)設置。河口の流れを人工的に固定し,また潮流を押し留めることにより,設置以後河口の形状は比較的安定しているという。近年では逆に砂嘴の先端部が痩せてきているようにも思える。石狩湾新港の防波堤,防砂堤などとの相乗効果も無視できないだろう。
導流堤には付け根にフェンスが設置され立入禁止。にもかかわらず10人を越す釣り人たちが乗り越えて糸を垂れていた。高所恐怖症の自分は,安全な砂浜で釣り人の釣果を覗く。スナガレイ?
北石狩衛生センターを背景にトレッキング風景(馬の蹄の跡)が見られた。
少し歩くと石狩川に合流する知津狩川の河口に至る。対岸を眺める。ここに設置されている川にせり出した構造物はなんだろう?河口近くの橋を見る。通行禁止にもかかわらず車が走る。大丈夫か? 【1週間後には車両通行不能状態】
橋近くの三等三角点「知狩」。ゴミが投棄されていたり,ハマナスのブッシュで守られていたりで,近寄るのにはいささか難儀する。
[リンク] 導流堤と夕陽
もっと詳しくはコチラを。 |
BR |
2009.06.24
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石狩湾新港中央水路の右岸入口近くで海底から湧き出る水。
花畔埠頭側突端,臨港道路・中央花畔線沿い。上から離れて見ても海面を盛り上げるほどに勢いよく水が湧き出ているのが分かる。え!こんなところに温泉の湧出か?釣り人に尋ねても,現象はみんな知っているが,原因となるとみんな知らない。
背後の陸上にフェンスで囲まれた設備があり,蓋に"放流渠"と刻印されたマンホールがある。
ここからは勝手な推測。新港地域の排水処理をしている石狩湾浄化センターでの処理水が,ここで海に放流されているのではないだろうか。
水路対岸・樽川埠頭側,ハマナスプロムナードの突端にあるモニュメントのふたつの円が,花畔埠頭側から見てぴったり重なる地点,あたりである。
脱線。ぼんやり眺めていても,水面の異常現象はそこここで気づかされる。
既出の石狩放水路のエアレーションもそのひとつ。
最近見つけたものでは,五の沢池。春,満々と湛えた静かな水面の岸近くで見えた渦巻き。底に取水用と思われるマンホールも見えるから,もしかしたらピンホールのような亀裂ができているのかもしれない。
[追記] 2017年の五の沢池の渦巻き⇒Topics |
BS |
2009.10.16 |
廃墟の石狩展望台。
2003年(平成15年)初夏,両親と番屋の宿に泊まった。翌日,弁天歴史公園を散策した折に展望台からの360度眺望を楽しんだ。そのときの写真がないのが惜しまれる。
それ以外に展望台を身近に感じた記憶は思い出せないでいる。
昨年(2008年)4月,石狩浜海浜植物保護センターと弁天歴史公園との間に整備された散策路などを歩いた。
カシワとクマザサの藪の中に,妙な構築物があるのを改めて発見した。石狩展望台だった。
立入禁止だという。踏み分け道をこいで展望台の下までたどり着くことはできた。
そしてこの秋(2009年)も,天井や壁の剥がれ落ちた情けない姿を晒している。
どうやら2006年春から使用禁止にしたらしい。
老朽化して危険であるための措置というのは,それなりに分からないではない。
しかし,案内板もそのままに,すでに4シーズンを経過している。
まさか廃墟を観光の目玉にしようというのでもあるまい。
観光協会(いまここには出張所がない)はいつまで放置しておくつもりなのだろうか。
[追記] 2018.03.03 使用禁止になって12年目の冬の姿。
[追記2] 2021.04.12 いきなり解体工事が始まった。重機がバリバリと音を立て展望台を噛み砕いていく。一週間もすれば跡形もなくなることだろう。⇒Topics
2015.11.04 に撮影した禁断の展望台からの画像を公開して,紛れもなくここに展望台があったことの証しとしたい。
北東方向の眺望。南東方向の眺望。南西方向の眺望。そして北西方向の(あらら,なかった。あってもどうせ海=石狩湾だけです)。
さらに,展望台からの,石狩灯台とヴィジターセンター,海浜植物保護センター,運上屋と楽山居,石狩河口橋。ついでに,展望台の床には公共基準点も。 |
BT |
2009.04.24 |
はまなすの丘の道しるべ。
遊歩道を木道から管理道路を経て1km弱歩くと東屋に出る。ここを左折して砂嘴を斜めに横断する踏み分け道(中道と呼ぶ)をおよそ400m進んだ先の行き止まり。砂嘴の先端方向,付根の方向,振り返って東屋の方向を望む。
2008年11月にはポールのみだったが,2009年4月には赤旗がひらめいていた。日本海に面した狭い砂浜からそそり立つ3mほどの高さの砂丘の崖の上である。河口先端から海沿いに散策してきたときには欠かせない道しるべ。かなり急な崖であるが,通常はここからなんとか上り下りできた。ところが2009年11月,垂直に切り立った壁になっていて,上り下りなどとても無理。荒波の気まぐれで,海辺は日々姿を変えている。
なお道しるべの赤旗は,東屋から左折せずに管理道路を直進した先にも立つ。
(2010.01.28 記)
[追記] 2010.02.21崖は激しく侵食されて目印(道しるべ)の赤旗も忽然と姿を消していた。おそらく日本海の荒波にさらわれてしまったに違いない。
[追記2] 2010.03.18 赤旗を発見!中道がふいに途切れる行き止まりに横たえる。
[追記3] 2011.05.09 先月までは赤い布きれのついた紅白ポール1本だったが,このころから2本のポールが並んで立つ。
[追記4] 2013.11.24 ポールに可憐な花が咲いていた。
と,思ったら,次に訪れたときには花が散っていた。(2013.12.18)
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BU |
2010.04.08 |
五の沢ダムの洪水吐(こうずいばき)。
知津狩川支流の五の沢川に設置されたダム(春先と夏)。貯水池は通称"五の沢池"。
1930年(昭和5年)完成のアースダム。
五の沢林道の冬期通行止から雪道を歩いてすぐ。池の岸辺は解けていたが,全体にまだ氷の世界。ひと月もするとこんな光景になるのだろうが。
洪水吐はダムの洪水を放流する設備。余水吐とも呼ばれる。
雪解けが徐々に進んでいるためか,水が勢いよく流れ落ちていた。5月になると水は流れない。
石狩にはこのほか2つのダムがある。
同じく知津狩川支流の地蔵沢川に設けられた高富ダム。(春先の全景)
高富ダムもアースダムで1930年(昭和5年)の完成だが,2005年(平成17年)防災機能を付加して改修された。
堤頂から春まだ浅い貯水池を望む。振り返ると下流には高岡橋が架かる。
洪水吐には水の流れが。
もうひとつは望来川上流の望来ダム。(春先の全景)
これもアースダムで1997年(平成9年)完成。
貯水池を望む。洪水吐に水が流れている姿はまだ見ていない。
望来川ではやや下流に古色蒼然たる頭首工が見られる。
[追記] 2010.07.17 夏の五の沢ダム。水位が下がって洪水吐は草むら。取水口もかなり露出している。
[追記2] 2011.06.25 この日の五の沢ダムは去年よりさらに水位が下がって,10番目の取水口も水面上に露出。毎年8月にはすっかり水が抜かれるのだそうな。去年,ダムの下の五の沢川が合流するあたりの知津狩川ではサケ(ホッチャレ?)の姿も見られたという。
[追記3] 2012.05.09 望来ダムの洪水吐から溢れている光景に初めて接する。放水路を流れる幾何学的水紋。
[追記4] 2021.09.07 初めて水が抜かれた五の沢ダムに遭遇。上からの全景,角度を変えてもうひとつ。ダム底からの全景。取水口の列を上からと,下から。一番下の取水口(多分18番)のフタが開けられたままになっている。洪水吐。
取水口より上の法面には単床ブロック護岸が施工されている。 |
BV |
2010.06.07 |
石狩川右岸,河口間近に流れ込む支流,知津狩川,聚富川の河口に設置された構造物。
石狩川の流れの方向に,ほぼ直角にせり出して構築(①,②)されている。
左岸砂嘴の岸辺を歩いていて対岸に見えるこれらの突起(③,④)はいったいなになのか,ずっと気になっていた。
石狩川河口導流堤と同じように,これらも支流の導流堤として機能しているのだろうか?
たまたま出会った漁師に尋ねてみたこともある。
「カイハツが造ったものだけど,オレラはコーカンと呼んでいる」
と,要領を得ない。
確かに"鋼管"ではある(⑤,⑥)。
『札幌河川事務所20年史』によると,どうやらこれらは"水制工"と呼ばれるのだそうな。
知津狩川河口のものは"来札水制工",聚富川河口のものは"中村水制工"という。
もっと詳しくはコチラを。
(2010.06.24 記) |
BW |
2010.09.23 |
いしかり調整池。(築山からの眺め)
北生振など石狩川下流右岸地域の灌漑用水の貯留施設。2007年(平成19年)3月完工。(概要,諸元,記念碑)
石狩川を水源とし,北生振用水樋門を介して北6号排水路に導かれた水は,北生振揚水機場で汲み上げられて用水路に流される。
しかし取水地点が石狩川河口に近いため,ときに塩分濃度が上昇して農作物に悪影響を及ぼしかねない。そのため石狩川の水を常時調整池に貯留しておく。
川の塩分濃度が設定基準を超えると樋門を閉じる。
同時に調整池取水ゲートを開放,送水路から北6号排水路に流して灌漑用水とする。
潅水期間は5月~8月。8月末には水が抜かれ,干潟状の溜り水にアオサギ,ダイサギ,シギなどの水鳥が憩う。彼女たちがバードウォッチャーを誘う。
フェンスには八幡小学校児童の力作によるパネルが並び微笑ましい。周囲は一周約1.6kmの散策路。
揚水機場敷地内には,50年間大役を果たしたとされる先代のポンプが保存されている(来歴)。
「開田水魂」なる記念碑も立つが,相も変わらず政治屋の名。はなはだ興ざめ。
北8号沿いにはまだ若いサクラ並木。"きたおやふる田園並木通り"の看板のほうが地域住民の心意気を暖かく感じさせる。
[追記] 2011.04.09 調整池はまだほとんど凍っていて水鳥たちの姿はないが,近くの美登位の田んぼでは並んで餌を啄ばむハクチョウたちに出会えた。
[追記2] 2011.05.13 初めて注水中に遭遇。それなりに迫力がある。
[追記3] 2011.05.17 依然注水中。水位はかなり上がったが,満水までにはまだまだ。灌漑用水路にも満々と水が流れている。
[追記4] 2011.05.25 この日のいしかり調整池。注水はされていなかった。それもそのはず,水位はすでに満杯状態。
[追記5] 2011.08.24 すばやい。すでにほとんど水は抜かれて,水鳥たちが戻ってきつつあった。5月にはとうとうと流れていた用水路も,当たり前のように干上がっていた。 |
BX |
2011.02.21
(動くGIF) |
いわゆる風車のイメージからはほど遠い八幡町の小型風車。夕陽を撮りに行って初めて目に留まる。
去年の12月に完成していたらしいが気づかなかった。
1基で10kWのものが8スパン並んで設置されている。
放水路脇の3基の市民風車たち(1500~1650kW)に比べてもいかにも可愛らしい。
しかしこれらの微弱なパワーをも集めて,なにがなんでも脱原発社会を目指さなければいけないだろう。
夕暮れの風車と朝陽を受ける風車。そして対岸,はまなすの丘からの遠景(ズームアップ)。
この日はメンテナンス中ということで動いていなかった。
その後もいつ行っても,せいぜい2基がゆったりと回転しているくらい。
8基揃って元気に廻っている姿にはまだお目にかかっていない。
近くに来札水位観測所がある。(局舎と水位測定柱)
石狩川では最も河口に近い(1.6KP)観測所だが,2009年7月以降の観測データは見られない。
(2011.04.23 記)
[追記] 2011.06.25 夏の小型風車。なぜか右側2基の羽根が外されている。残りの風車のうちの4基が気紛れに回転していた。
[追記2] 2011.08.17 この日の石狩川は大雨後の増水にもかかわらず穏やかで,風車の影を映していた。
[追記3] 2012.02.06 凍った対岸から望む冬の石狩川と小型風車。
[追記4] 2013.12.27 いつの間にか撤去されていた。
[追記5] 2015.07.02 小型風車の撤去跡地に今度はソーラーパネルが並んでいた。
小型風車については,『石狩の紅白』のページもぜひご覧ください。 |
BY |
2011.04.24 |
石狩地域気象観測所。気象庁のいわゆるアメダス(地域気象観測システム)ポイント。
生振に設置されていて,降水量,風向風速,気温,日照時間,積雪の深さが自動的に測定されている。つまるところ,生振の気象が石狩の気象を代表しているというわけだ。(雪の中の1月,3月)
すぐ近くに,動物供養塔があるがとくに関係はなさそう。。。
石狩市域のアメダス・ポイントは,ここのほかに,旧厚田村,旧浜益村の計3ヶ所ある。
これらの観測データは気象庁の気象統計情報のページで閲覧可能。
札幌広域圏気象観測システムというものもあるようで,親船墓地駐車場脇に"地上気象観測装置"が設置されている。ここで観測されたデータがどこで閲覧可能なのかは分からない。
そのほか,石狩湾新港東埠頭に開発局の石狩検潮所が設置されている。まわりに漁師たちの道具類が積まれていて雑然。大きな津波にはとても太刀打ちできそうもない。データは気象庁の潮位観測情報のページで見ることができる。
(2011.05.10 記) |
BZ |
2009.06.17 |
厚田港朝市前公衆トイレの壁のマーメイドのレリーフ(トイレの女神?)。
いかなる因果関係でここに,胸もあらわなマーメイドが捕らわれの身になっているのか,いつも不思議に思う。朝市と背中合わせの人工海浜(厚田漁港海岸)には新しい立派なトイレが設置されたのだから,そろそろ可哀相なマーメイドを解き放ってあげてもいいのではないだろうか。
ところでこの公衆トイレ,バブル真っ只中の1988年(昭和63年),当時の竹下内閣が実施したバラマキ交付金・ふるさと創生基金によって造られたものだという。旧厚田村では"ふるさとトイレ"と称してここのほか3ヶ所でも造られた。
・厚田公園・ふるさとふれあい広場の整備に伴って造られたトイレ(冬篭り)。
・"厚田村発祥の地"碑,"弁財船投錨地"碑のある古潭集落に造られたトイレ(壁画)。
・聚富ミニパークに設置された"聚富開村百周年記念"碑と2階建てトイレ(下が女性用,上が男性用)。
ほかの町村でも1億円トイレとかが話題になったが,この程度の公衆トイレを数ヶ所造った旧厚田村は,ふるさと創生基金1億円の使い方として賢い部類に入るかもしれない。
ちなみに旧浜益村ではふるさと塾とふるさと公園が整備された。石狩市との合併後ふるさと塾は,"適沢コミュニティセンター"となり,さらに"ラバーズ・オーシャン","cafe gull"と,看板も目まぐるしく変っている。
さて旧石狩町では・・・本町地区活性化事業の一環としての温泉開発ボーリング調査などに費やされたようだ。1995年(平成7年),第3セクターによる石狩町保養センター"石狩温泉番屋の湯"として開業。数年間は飛ぶ鳥を落とす勢い(いつ行ってもイモの子洗い状態)だったが,やがて身売り(2006年)して"魞(えり)の湯"に変わり,そして今また名前だけ"番屋の湯"に戻るという流転を繰り返している。やはり,二匹目の泥鰌を狙った"番屋の宿"(1999年開業)が命取りになったのだろう。
(2011.11.16 記)
[追記] 2012.04.19 浜益"cafe gull"の新しい看板。"ラバーズ・オーシャン"は朽ちて倒れている。
[資料] 2012.12.09 旧石狩町・ふるさと創生1億円(広報いしかり・1989年8月号) |
CA |
2012.04.28 |
石狩市弁天歴史公園(マップ)にはいしかりガイドボランティア(無料)が常駐している (10:00-16:00; ただし,土,日,祝日のみ)。
弁天歴史公園は,庁舎移転(1993年),市制施行(1996年)に伴い,本町地区再開発事業の一環として,旧石狩医院跡地に2000年(平成12年)9月オープンした。
管理棟はアイヌと和人の交易の場となった運上屋をイメージした建物で,ホールは石狩の歴史をテーマとした展示室となっている(毎日公開)。
●周囲に配置された見どころ・・・
・市制施行記念メモリアル事業として制作されたレリーフ『先人たちの碑』
・秩父事件の指導者で石狩に潜伏していた井上伝蔵の句碑(俳号・柳蛙)
・再建された旧石狩医院の離れの和室『楽山居』・・・絞り丸太を使った床の間,付け書院,扇画を張られた欄間,雪見障子,持ち返り板など意匠を尽くした造りの内部,そして石の庭は大雪山・石狩川・日本海がモチーフとされ,鶴と亀の石組,砂盛(向月台?),舟石,水琴窟,織部灯篭などがあしらわれている。
・開町100年記念の鮭供養之碑
・太郎代天曝観音と西国三十三箇所霊場
・300年以上の歴史を持つ石狩弁天社・・・内陣の主神は弁財天,左に稲荷大明神ほか,そして右に石狩固有の神様・妙鮫法亀大明神(サメさま)ほか。本殿には奉納された絵馬額,鰐口など。拝殿の外には礼拝器(手水鉢),灯篭,北千島沖流網之碑 など。(朝陽を受ける冬の弁天社)
●弁天歴史公園前を通る曲がりくねった弁天歴史通り沿いの見どころ・・・
・石狩温泉 番屋の湯
・ホテル番屋の湯(休館中)
・いしかり砂丘の風資料館
・復元された石造の旧長野商店
・曹洞宗曹源寺
・浄土宗法性寺
・石狩八幡神社(石鳥居は弁天社旧蔵品)
●やや離れるが・・・
・私設資料館『石狩尚古社』
・妙見堂に妙鮫法亀善神が祀られている日蓮宗金龍寺
・石狩河口渡船場跡 (対岸八幡町側標識)
・本郷新制作による石狩開拓者慰霊碑・ブロンズ像『無辜の民』
・海浜植物のタネも無料配布されている石狩浜海浜植物保護センター(展望台もある)
●歩いていくと少し遠い(1km以上)けれど・・・
・はまなすの丘公園・・・木道散策,石狩灯台,ヴィジターセンター,石狩川河口の碑 など
(2012.05.04 記)
[追記] 2013.01.08 雪に閉ざされた,シーズンオフの運上屋棟と弁天社。
なにを隠そう今年(2012年),新米ガイドボランティアとしてデピューいたしました(5/26)。
ホームグラウンドは弁天歴史公園とはまなすの丘。つまり石狩市の本町地区。
しかし要請があれば,厚田,浜益までのガイドも引き受けちゃいます!(10/21)
ガイドのお問い合わせは,石狩観光協会へ。 |
CB |
2012.06.21 |
いしかり浜サンドパーク2012のシンボル砂像(サンドアート)
石狩海水浴場・あそびーちで開催(6/23~7/1)。終わったら姿を消す。
砂でできているとはなかなか信じがたい精巧さである。
目,口,ウロコ,そしてこれは何?背後の砂丘の上から見下ろす。
これは多分さけ太郎(ゆるキャラグランプリ2011では284位/348エントリー中)。
ついでに,去年(2011年)のサンドアートをいくつか。カメ,クマ,オッパイ,補修中の石狩鍋。
このあたり一帯は昨冬水洗化工事が行われ,海水浴場のトイレも綺麗になっている。
[追記] 2016.06.18 なんとなく4年ぶりのサンドハーク。いしかり浜にゴジラが現れたという。展望デッキに上がると眼下に足跡が。でもこれって右足なの?左足なの?そしてどうしてひとつだけなの? |
CC |
2012.06.21 |
看板どおり,井上伝蔵の住居があった地。
明治政府の緊縮財政によりデフレスパイラルが発生。養蚕で生計を立てていた埼玉県秩父地方の農民たちは増税と生糸価格の大暴落により困窮の度を深めた。1884年(明治17年),おりからの自由民権思想の影響を受け,圧政への怒りから武装蜂起したのが秩父事件。軍隊の出動により農民軍は10日ほどで壊滅させられた。
蜂起を指導した困民党の会計長だったのが井上伝蔵。欠席裁判で死刑を宣告されるも事件後逃走。3年後秘かに来道し"伊藤房次郎"と名を変え23年間を石狩本町地区で暮らした。居住地跡"三"があるからには"一"と"二"もある。小間物屋と代書業を営みながら三度住まいを変えている。(現在の風景 : 一,二,三。二の位置は佐藤水産・鮭魚醤蔵の前で分かりやすい)
伝蔵は逃亡生活のさなか,俳句結社"石狩尚古社"に所属して"柳蛙"の俳号で句を残している。弁天歴史公園のレリーフの脇に句碑が建つ。 |
CD |
2012.07.18 |
濃昼山道(2005年秋開通)で渡る「滝の沢」は,別名(通称)「馬鹿臭い沢」と呼ばれているそうな。
幅120mほどの狭い谷なのだがそれなりに急峻で,300m以上も遡って渡渉するという迂回を強いられることから,「ア~ァ,バカクサ…」とつぶやかれたことがその発端なのかも。
濃昼山道は実は2度目。前回は新赤岩トンネルがまだ工事中だった4年前の2008年8月。バス停「濃昼」近くの山道入口から濃昼峠(357m)まで登って引き返した。
今回は逆に,安瀬橋右岸たもと滝の沢トンネル側の入口からゆっくり歩いて2時間。厚田の方角を見渡せるビューポイントで一休みして引き返してきた。
途中でもうひとつの沢,馬鹿臭い沢よりはかなり大きなその名も「大沢」を渡渉する。両岸でS字につづら折れした勾配の上り下りがあり,沢にはかつて立派な橋が架かっていたことを彷彿とさせる石組み橋台の遺構がある。左岸側はほとんど崩壊しているものの,右岸側はほとんどそのまま。濃昼山道保存会のパンフレットには,橋台上に丸太が渡された三本橋の写真が載っているが,いまではそれもない。川岸まで下りて一本だけの倒木橋を渡ることになる。
この日は一級水準点,8438(84.0m),8439(97.6m)と出合えた。4年前には8443(84.5m)の姿を捕捉している。残る水準点は3ヶ。そして全行程を踏破できるのはいつの日のことだろうか?
[追記] 2013.10.14 3度目の濃昼山道歩きのこの日は,送迎バス車内でのガイドがお仕事。5日間ほど続いていた風邪熱が前日ようやく下がったばかりではなはだ心もとなかったけれど,なんとかガイドおよび往復4時間の山歩きをクリアできた。総勢35人ほどがこんな風に一列になっての登りと,てんでんばらばらの下り。折り返し地点は濃昼峠から太島内川へ向かって700mほど進んだ当たり。2008年よりは一歩前進か…絶好の日和,眺望は北方向(濃昼,尻苗トンネル),南方向(厚田,古潭,嶺泊港)とも抜群。季節がら花はトリカブトくらいだったが,宝石のようなツルリントドウの実に出会えて納得だった。 |
CE |
2012.10.10 |
石狩川河口砂嘴の先端から石狩湾新港の方角を望むと,いままで見たことのない妖しい焔が。
帰路近づいてみると,北ガスのLNG基地に隣接する鉄塔(燃焼放散塔)の先から激しく焔を吐き出していて,岸壁には巨大なタンカーが接岸している。球形タンクを4基搭載し,サハリンからLNG 145000KLを積み込んできて7日に入港したという「エネルギーアドバンス号」(船首,船尾)。8日間かけて基地の大型タンク(180000KL)に移し替えるらしい。不純物などを抽出する際の余剰ガスを燃焼させているのやらなんなのやら?よく分からない。燃焼放散との説明だけではまったく不十分。(北ガスからの簡単なお知らせ)
12日,さっそく野次馬気分満載で,あちらこちらから眺めてみた。樽川埠頭から,その先のモニュメントから,中央水路の最奥から,水路の出口から,中央埠頭から,東埠頭から,石狩放水路茜橋から。
港内をウロウロしているタグボートらしき船はLNG荷役の警戒に当たっているのだろう。東埠頭の船溜にはほかにも"かむい","そうや"などが待機している。
そういえば,中央埠頭の既設のタンク群は"津波時避難タンク"として使われるらしい。
余談だが,7月のある日ふと見ると,LNGタンクの屋根の色が赤変していて驚いたことがある。その後1週間ほどで何事もなくつやつやとしたアルミ色に戻ったのだが,あれは塗装の過程で錆び止めが塗られた僅かの間の出来事だったようだ。
それにしても"想定外"の事態が発生した場合のLNGの怖さは,風力発電などの危うさの比ではない。結果的にその存在を受け入れてしまった石狩市民は,それ相応の覚悟というものを常日頃忘れてはいけないだろう。
"絶対安全"などという技術はありえないということを,私たちは福島から学んだはずなのだから。
[追記] 2012.10.25 東埠頭から。すでにタンカーは立ち去っていた。手持ち無沙汰のタグボートが3隻。
[追記2] 2012.10.27 放水路出口から。石狩浜で夕陽を見た帰り。
[追記3] 2013.07.13 再び焔を吐いていた(河口先端から,東埠頭から)。そして翌日には消えていた。気づかないだけで,しばしば焔を吐き出しているのかもしれない。
[追記4] 2018.10.11 北電石狩湾新港発電所へ供給するLNG基地での燃焼放散。よく燃えている。そういえば,8月砂嘴の先端からだるま太陽を見た時にも燃えていた。 |
CF |
2012.11.15 |
私設資料館「石狩尚古社」の瓢箪型看板。大きな筆とともに玄関の左右にぶら下がる。
「石狩尚古社」は,1856年(安政3年)に創設されたという俳句結社。2代目社主・鎌田池菱ら中島家の俳人が残した膨大な資料が,幾多の大火,空襲をまぬがれ土蔵に眠っていたものを発掘・修復・展示しているのがこの資料館である(館主・中島勝久氏)。
幕末,明治期の俳句関連資料は数多いが,現今の俳句も陳列されている。
石狩市内の公設の資料館としては,旧石狩町の「いしかり砂丘の風資料館」(全景 2012年),旧厚田村の「厚田資料室」(全景 2008年,2012年),旧浜益村の「はまます郷土資料館」(全景 2008年,2011年)があるが,私設のものは現在ここだけ。
浜益の千代志別にかつて「旧山口家記念資料館」(全景 2009年)というのが開設されていたようだが,いまは閉じられている。
[追記] 2013.01.09 シーズンオフの尚古社。 |
CG |
2013.02.04 |
嶺泊海岸の氷瀑。
氷瀑といえば,雄冬の滝のように流れ落ちる滝の水が凍結したものを思い描くが,この氷瀑はすこし違う。ここ嶺泊を含む望来から厚田にかけての海岸は,大昔(530~2400万年前)の海底が隆起した海岸段丘。それが波によって浸食された海食崖が連なる。崖のあちらこちらから地下水が滲み出し,凍結し,徐々に成長,巨大な氷柱になったものである。
嶺泊港(夏,そして高台からの全景)の南側(夏)の氷瀑には嶺泊川の河口の橋を渡って近づく。絶えず転がり落ちてくる落石が油断ならない。崖の上には電波塔が立っているのだが見えない。
北側の海岸(夏)に出ると,嶺泊北の船着場までの間に数本の氷瀑(夏)がそそり立つ。すぐ手の届きそうなところに巨大なノジュール(夏)が。
4年ほど前の真夏に訪れた嶺泊港では路上でコンブが干されていた。
この日はうら若きボディボーダーがたったひとりで冬の波に挑んでいた。
そうそう,この日のお目当てはニシンの群来でもあったのだが,そちらはハズレ。
[追記] 2013.02.06 再挑戦。群来にはまた嫌われた。それでもニシンは豊漁,網からはずす作業で大わらわだった。ニシンはたちまちオスとメスに分けられる。ここで買ってもキロ1000円(メス)という。うーむ。。。
北側の海岸を歩いてみた。崖の上からバラバラ降り注ぐコブシ大の落石をひょいひょい避けなければならない。頭にでも命中したら,それこそ自己責任。真上に奇怪なノジュール。崩れて落ちてきたらこんな感じだろう・・・カメみたい。
嶺泊北の船着場のすぐ脇に,名を知らない沢が滝になって流れ落ちているのを初めて目にした。青空の下の氷瀑①,②。
[追記2] 2013.06.07 夏の氷瀑を再確認。地下水が滴り落ちている。
嶺泊港北側消波ブロックから嶺泊北を目指して約0.5kmを海沿いに歩く。名を知らない滝を南からと北から写す。すぐ近くに,3mほどあると思われるトドの屍骸。ここで引き返すつもりが,古潭港を目指してさらに約1.8km歩くことに。帰りは国道を歩いて嶺泊に停めた車まで戻る。熱中症目前。
[追記3] 2015.02.07 2013年は群来を求めて2月だけで8回ほとんど闇雲に嶺泊に走った。結局ことごとくハズレて,諦めた。2014年はそれどころではなく忙しくて訪ねたのは1度っきり。もちろんハズレ。
しかし2015年,執念で群来を予測し的中した。→群来・ウオッチング
でも,群来が発生したのは古潭の周辺。嶺泊周辺では今年も氷瀑ウオッチング。①,②,③
[追記4] 2017.01.27 雪は少ないが寒さの厳しいこの冬,氷瀑は雄大に育つ。地面につながった太い氷の柱。嶺泊北の滝はすっかり氷に覆われていた。
[追記5] 2017.02.28 嶺泊で群来が見られた日。漁港の南側海食崖の氷瀑。北側に比べてやや貧弱。群来はこの崖の下の磯で発生した。この画像でも海面が白い。 |
CH |
2013.02.25 |
雪嶺の噴煙。
実は,はまなすの丘。噴煙が立ち上るはずもない。
この日の浜崖は純白のヴェールに被われていた。
そしてはるかに見える北石狩衛生センターの煙突からは東の風に白煙がたなびく。
角度によっては神居尻噴煙。
3月になると雪嶺もたちまちよごれる。
[追記] 2015.01.14 噴煙は時として東屋の屋根からもたなびく。(タネあかし)
[追記2] 2018.12.13 浜崖の噴煙とけあらし。けあらしはコチラ。ほかにも浜崖噴煙***2/22,12/6。 |
CI |
2013.09.29 |
(仮称)弁天の丘。石狩川河口砂嘴上では最も標高が高く,12.5m。
この夏石狩浜海浜植物保護センターにより丘に至る道(写真左側)が開かれた。従来から付近住民に使われていた道(写真右側)も残るが,けものみち状で一部私有地も通過するため,市の管理地内に新たな道が設けられた。登りつめた丘から先は従来からの道を経て弁天歴史通りに直結する。逆に弁天歴史通りから見ると,車止めがあって右に出雲教会(いわれ)が建つ。その脇の小径をまっすぐに登ると丘の上に立つことになる。
付近で一番高いことから,明治の頃から漁師たちが漁模様を占うためにこの丘の上に立って海を眺めたという。場所がら"出雲さんの山"とも呼ばれていたらしい。とはいえここはまぎれもなく"弁天町"。"(仮称)"を取ってもいいのではないだろうか。
さけまつりの日,丘のてっぺんから海を眺める。
(2013.10.17 記)
[追記] 2014.07.27 曲折を経て,今年から「展望の丘」と称せられることになった。
[追記2] 2014.09.27 上空およそ140mからの,海浜植物保護センターと展望の丘。空撮はこちらも。
[追記3] 2015.09.27 再度さけまつりの日の空撮。飛び立ったばかりで高度はまだ40mほど。
[追記4] 2016.06.18 この日は第4回はまなすフェステイバル。再生園のはまなすが綺麗だ。展望の丘には丸太看板が。”弁天の丘”でないのが淋しいが。 |
CJ |
2014.01.19 |
冬の無辜の民。『この地に生き この地に埋れし 数知れぬ無辜の民の 霊に捧ぐ』
「石狩-無辜の民」は彫刻家・本郷新の代表作のひとつ。もともとは中東戦争の中で悲惨な状態に追い込まれた民衆の姿をモティーフに制作された,15点の小品シリーズのひとつ「虜われた人Ⅰ」を拡大したブロンズ像。1981年6月,本郷自身の希望により彼がこよなく愛した石狩浜に,『石狩』と題して設置された開拓者慰霊碑でもある。
最初に訪れたのは2007.08.31。悲痛すぎるフォルムにしばし声を失った。元気を出そう?と,当時まだ営業していた"あいはら"で石狩鍋の定食をいただいた。(なんともいえない落差!)
その後もたびたび訪れてはいるが,駐車スペースがないのが難点。
(2014.01.27 記)
[追記] 2017.09.20 最近看板がリニューアルされている。入口表示,説明板。訪れる人は結構多いようだが,アプローチに伸び出たアキグミの枝が邪魔。
2011.05.13,2012.04.27,2013.03.12,2014.03.17,2015.01.14,2015.02.17,2016.01.23,2017.03.08
2018.03.03,2019.01.27,2019.02.25,2020.02.16,2021.02.20,2022.01.23,2023.03.02 (new)。 |
CK |
2015.03.14 |
石狩浜に漂着し,やがて白骨化した巨大クジラの背骨なのか・・・ンなわけないっしょ。。。
本当は,はまなすの丘・海浜植物等保護地区に置かれた車両進入防止用のコンクリートブロック。
おそらく3月初めの防風浪で浸食されたものと思われる。
浜崖の後退は数m程度だが,崖下の砂がえぐりとられた。
こんなごっついブロックが並べられていたなんて,初めて知った光景である。
いつごろ敷設されたのかは定かではない。当初はこれだけで車両の進入を阻止する十分な効果があったに違いない。
が,やがて堆砂に埋没。春から晩秋にかけて単管パイプによる進入防止柵に置き換えられる。
自分がうろつき始めたころにはすでに柵のみ。(2008.05.07,2009.04.24)
ブロックは海際の数個の頭が露出している程度(2013.12.18,2014.12.19)で,ほとんどは砂の下に隠れている(2013.11.24,2015.01.14)。
以前にもここは荒波に襲われ崩落した(2012.03.28)。柵の設置後(2012.04.21 ブロックの頭だけ露出している)。
また海側の単管柵が一部引き倒されていたこともある(2014.05.17)。
[追記] 2015.04.22 車両進入防止柵がしっかりと補修されていた。四輪車のみでなく,オフロードバイクの進入も無理でしょう。
[追記2] 2015.04.25 石狩川の雪解け水が運んできたガス(枯葉,木屑,ゴミなど)がここまで押し寄せてきている。
[追記3] 2015.06.08 クジラの背骨ではなくてコンクリートブロックがかなり埋まってきた。激しく浸食されたこのあたりもそろそろ堆積局面に転じたものと思われる。通常崖から汀線までの砂浜の幅は30mほどあるのだが,浸食された3,4月には10mほどにまで狭まってきていた。それが今では20mほど。半分くらい回復したといえる。
[追記4] 2015.07.16 完全に砂に埋もれて見えなくなったブロックも多数。それだけ砂浜がもり上がったということだが,そのわりに砂浜の幅はさほど広がらず。
[追記5] 2015.10.17 先月9/21にはしぶとくブロックの先が2ヶまだ見えていた。今月にはいってすぐの爆弾低気圧に運ばれた砂で,10/5にはブロックが完全に埋まってしまっていた。
[追記6] 2015.11.04 汀線の出入りの様子。10/23にはかなり海側へ前進して浜が広くなったが,10/26にはすぐまた元のように後退。この日見ると柵は除去され冬支度完了。潮位が下がって海中のブロックもかなり露出。
[追記7] 2015.12.25 砂の堆積により浜のブロックはすっかり埋まってしまっても,海中部分のブロックは多かれ少なかれ頭を出しているのが普通。けれど
11/11 が最後の目撃になった。11/24 に行ってみると崖下から8mほどまで浸食が進み,バーム(汀段)が削られて高さ1m以上もの崖になっていた。この時海中のブロックを見た記憶はない。11/30 あらためて見に行くと海中のブロックは影も形もない。そして昨日(12/24)もまったく見えず。
妙なことが気になって雪がないことを幸いに足繁く通っていると,予想もしていない巡り合わせもある。12/23 はこの時期珍しいベタ凪。お駄賃に下位蜃気楼に遭遇した。
本題に戻って,海中のブロックはどこに消えたのだろうか?そのワケは,①波に持ち去られた。②堆積した砂に埋もれた。③あたり一帯が波に洗掘されて沈んだ。④定常的に海水面が上昇している。⑤誰かが持ち去って床の間に飾っている。⑥私が耄碌(もうろく)している。⑦そのほか。。。さて・・・
[追記8] 2016.02.25 このあたりは去年を上回るほどの激しい浸食を受けた。崖も後退,崖上に設置されていた立入禁止柵は見る影もない。崖下もえぐりとられているが,やはりコンクリートブロックは見当たらない。どこに消えたのか?もう分かっていたことだが,自然の力であれらのすべてが一斉に消えてしまったなんてとても考えにくい。私だってまだそこまで耄碌していない。つまり,答えは⑤だ。床の間に飾ってあるかは知らないが。では誰が?どうやら石狩市が撤去したらしい。良くも悪しくも設置された時代の証しでもあるだけに,邪魔だから撤去すればいいというものでもあるまい。ブロックがどれだけ頭を出しているかは,自然の猛威を推し量る指標ともなりうるものだっただけに,失われたことはとても惜しまれる。(2016.03.02
記) |
CL |
2015.03.19 |
嶺泊海岸に落ちる名も知らぬ滝。
氷瀑の項でも触れたが,氷瀑が地下水の滲出によるものであるのに対し,こちらは沢の流れ。
海食崖が続く望来から厚田にかけての海岸には,比較的大きな川として正利冠川,望来川,嶺泊川,古潭川,そして厚田川などが注ぎ,河口には昔から集落が形成されている。
それらの川のほかにも,丘陵から石狩湾に流れ出る沢が国道231号を横断しているのだが,嶺泊川を含め小さな沢は暗渠となって国道の下を流れているのでほとんど気づかれない。
航空写真で見ると嶺泊-古潭間にも少なくとも4本の沢が確認できる。
そのうちの最も嶺泊寄りの沢が,バス停「嶺泊北」のある小集落の船揚場のすぐ南側に滝となって流れ落ちている。(壊れた車が2年前とほとんど変わらぬ位置にあるのがおもしろい)
嶺泊側から望むと,なぜか浸食を受けずに残った奇岩とともになかなか絵になる風景だと思う。雪解け時と重なり水量もかなり多い。
[追記] 2020.02/24 2/11には周りがすっかり氷に覆われていたのに,2/22には流れ落ちる姿を露わにしていた。2/11を最後に寒気と暖気が入れ替わったせいか。それにしても11日間で随分な変わりようだ。 |
CM |
2015.03.30 |
鳥居でしょう??? 紅いからお稲荷さんかな?でもお社がどこにも見当たらない。それよりなにより,高さといえば1m足らずのミニチュアサイズ。
石狩市を縦貫する国道231号の浜益区内に2ヶ所設置されている。ひとつは濃昼・送毛間,竜神橋と尻苗トンネルの間(2年前),もうひとつは群別・幌間(群別牧場への道の近く)。いずれも北向き・留萌方向海側車線に設けられた駐車帯の外側に立てられている。
意味不明なのだがインターネットによる知識では,神様の御利益によりゴミのポイ捨てを思いとどまらせることを狙ったものなのだそうだ。インターネット情報には眉唾的なものも多いので,担当する道路事務所に問い合わせてみた。かなり昔のことなのでいまでは経緯も定かではないのだが,やはりゴミ捨ての抑止効果を期待して試しに設置されたものらしい。
それでもまわりにはゴミが捨てられていて,畏れを知らぬバチ当たりな人間は必ずいるものだ。(ま,こんなイミテーションで効果を期待するというのもいかがなものか・・・他よりもゴミ捨てが少なければそれなりの意味があるといえなくもないが)
[追記] 2016.07.04 ひさしぶりに浜益方向に走っていると,ミニ鳥居がふたつとも鮮やかな朱色に塗られて輝いていた。濃昼・送毛間と,群別・幌間。鳥居が神々しいとゴミのポイ捨てに対しても抑止力があるようだ。それはともかく,ミニ鳥居は国道231号だけでなく,337号でも見かける。新川から少し東の駐車帯(いまでは石狩市ではなく小樽市の領域)に4ヶも。 |
CN |
2015.05.24 |
まったく念頭になかったのだが,去年(2014年)6月,ドクガ幼虫による突然の皮膚炎で酷い目にあった。
ドクガの終齢幼虫(3~4cm)は0.1mmほどの毒針毛を600万本も身にまとい,これを飛散させて外敵に対抗するそうな。この目にも見えないほどの毒針毛が付着した皮膚を掻いたり擦ったりすると発症する。毒針毛自体は生きものではないのでたとえドクガを殺しても残り,風に吹かれると空中を舞う。実にやっかいなシロモノだ。
ドクガは孵化して幼虫の状態で越冬,4月ころ暖かくなると集団で動き始める。はまなすの丘では大好物のハマナスが新葉を展開すると数十匹がダンゴ状に密着して,まるで黒い花が咲いたのかと目を疑うほど。
今年は東屋の周辺で大量発生している。5/14,初めて目撃してぞっとしたのも東屋を通り過ぎた草むら。そして,5/17,5/24。5/26,管理道路の東屋手前5,60mあたりの川側ではほとんどの新葉が食害されて緑の葉は残っていないほどだった。
これから幼虫たちは群れを解消して分散し一匹狼の単独行動に移る。毒針毛でのさらなる軍備拡張をはかる。木道脇でも食害されたハマナスがかなり散見された。アブナイのはいよいよこれからだ。
立入禁止のハマナスの薮に踏み込むのは,身を守るためにも思いとどまるべきですよ。
[追記] 2015.05.31 さっそくだが,たまに数匹の群れも見られるが,ほとんどがすでに体長2cmほどに一匹狼化。そして木道上での徘徊もちらほら見られる。
[追記2] 2015.06.01 そして木道のベンチもアブナイ。すわる時にはくれぐれもご用心!
[追記3] 2015.06.13 このドクガたち,なんでも食ってしまうみたいだ。好物のハマナスを食い尽くすと近くにある葉っぱならお構いなし。。。アキグミにもこの通り。ほかに,ヤマブドウ,イタチハギなどなど。
[追記4] 2016.05.12 今年もいます!これは東屋の先の管理道路脇だが,きっとどこにでもいるだろう。
[追記5] 2017年のドクガ⇒Topics |
CO |
2015.07.03 |
本町築堤を挟んで渡船場跡のちょうど反対側の堤内地。昨年からかなり大きな石が多数積み上げられているのに気づいてはいたが,まともに撮った写真はない。今年4/30見ると,どうやら去年のうちにすでにいくらか石垣が積み上げられている様子(去年は2度ほど講習会が行われたらしい)。
6/13通りがかると,作業の真っ最中。女性も参加して真剣。穴太衆石積み講習会というものらしい。そもそも”穴太”を”あのう”と読むことも知らなかった私は,知識をネットに頼る。戦国時代,信長が築城した安土城の石垣を作ったのが穴太衆(石工たち)。その後の名城,大城の大半は穴太衆の手によるものといわれているとか。
そんな伝統的石積み技術の講習会が本町で行われていたんだね。聞くと,セメントの類は一切使わないそうな。でも重機は使うらしい・・・
7/3講習会終了後の積み上げられた石垣。横から見るとこんな案配。まさか崩れたりはしないよね。
10/12,堤防の上つまり後ろから見た石垣現場。遠景に尚古社が写っている。
この石積み技術は道内でも河川護岸工事に生かされているのだという。
(2015.12.23 記) |
CP |
2016.03.05 |
濃昼漁港脇の巨大ツララ(2016.02.04)
濃昼漁港はやや突き出て石狩湾に落ち込む濃昼岬に抱えられるように,その南側の入江に位置する。漁港を守るように岬からほぼ真南へ向かって200mほどの長さの西防波堤が伸びている。その防波堤の取り付け部近くの崖の壁面に巨大なツララが成長する。
嶺泊の氷瀑も見ごたえがあるが,氷の表情がやや異なるようだ。嶺泊,古潭(ほぼ厚田川以南)あたりの崖は堆積岩であるのに対し,安瀬,濃昼(厚田川以北)では火成岩でできた崖だからだろう。滲み出てきた水が凍るか,流れ落ちてきた水が凍るかの違いのような気がする。
次に訪れた3/5には早くも暖気で緩んだツララは白っぽくなり輝きをうしないつつあった。それでも裏側から覗くとなかなかの迫力を感じさせるものがある。3/16では雪解け水が上から降り注ぎツララは風前の灯火状態だった。
なおここには,私が”おっぱい岩”と呼ぶ奇岩があるのだが,そのネーミングの評判はあまり芳しいものではないようだ。
[追記] 2016.07.04 夏の濃昼岬。防波堤の付け根のあたりが浅い洞窟上に窪んでいる。その上にひさし状に被さった岩に,冬になるとツララが成長する。窪みの中からの,東側と西側。そして奇岩。
[追記2] 2016.12.03 泥酔した翌日,送毛,濃昼,古潭の海辺を巡る。ここ濃昼岬ではさすがにまだツララはできていない。抜けるような快晴ながら激しい西風に波の花が舞う。一瞬ぞっとしたのは巨大なカブトムシの出現。
[追記3] 2017.01.09 12/3にはまだ姿が見えなかったツララだが,年の瀬12/28には立派に成長していた。そして年明け1/8,幾分さらに成長していたが,快晴の日差しを受けたせいかシャープさに欠けるものがあった。裏側からの眺めは壮観。認知度が上がったのだろうか,見に来るお客さんも増えたようだ(ロウアングルで迫る中年のご婦人)。
[追記4] 2017.02.05 頂きに陽が昇った直後の裏側から。少し遅れてやってきた年輩の男性(黄色いヤッケ)も同じアングルから狙っていた。
[追記5] 2017.02.23 押琴で群来が見られた日。表からと,裏から。2月中が美しく荘厳。
[追記6] 2018.02.02 今年も会いに来た巨大ツララ。濃昼岬の全体像(なんとなく具志堅用高っぽくないですか?全然思わない?あ,そうですか),接近して見上げる,洞穴の中(あまり広くはないし,ゴミもある),中から外を眺める①,②,③。
[追記7] 2019.01.13 冬といえば毎度お馴染みゴキビル・ツララ。表からと裏から。かなりシバレていたので氷も輝いていた。 |
CQ |
2016.05.02 |
石狩にもあった眼鏡橋
親船町にある本町中継ポンプ場のすぐ北。道道225号小樽石狩線だから,いしかり浜に向かう時にはほとんど必ず通る道(石狩樽川海岸線を通らなければ)。これまで何十回,何百回と走っているはずなのに,ここに橋があることを意識したことはなかった。確かに下にはほそぼそと水の流れがある。橋といってもせいぜい長さ15mくらい。橋から250mほど東に流れて石狩川に合流する。手前に赤井川樋門が設けられている。ということは,このほとんど排水路に近い川は”赤井川”という立派な名前の川なのか…
橋の上流側からと下流側からあらためて眺めてみる。水量が豊かだったら水面に姿を映してもっと”眼鏡橋”っぽくなるのだろうが。うろついていると,近くの草むらに馬頭観世音がひっそりと立っていた。
[追記] 2016.12.08 ずっと草に隠れていた眼鏡橋,冬になるとやおら姿を現す。
[追記2] 2017年の眼鏡橋⇒Topics
[追記3] 2017.07.03 眼鏡ではなくて一つ目小僧。実は渡船場樋門の堤外水路出口の水管。逆に,水路出口から樋門を眺める。ここから石狩河口橋までの間が河川愛護モニターの担当区間になって,おととし2015年春から眼鏡橋とともにしばしばお目にかかるようになる。水面がざわついていてくっきりとした一つ目になることは少ない。よく見ると口に見えなくもない。吸い込まれそうでこわい。向こうは石狩川。 |
CR |
2016.12.03 |
古潭港の防波堤の上から見た4基の小型風車
かつて弁財船が停泊したという押琴(オショロコツ)の入江背後の崖の上に並んでいる。ここからではおよそ500m以上離れているのでズームを使用してもあまり鮮明ではない。
実は国道231号からは海側へ50mそこそこの位置。その存在は走っていると嫌でも目に入る。にもかかわらず,11/14に千本ナラとハママシケ陣屋跡を見に浜益まで往復した時には気づかなかった。単に見逃したのか,それ以降に建ち上がったのか…?
どっちにしろ小型風車であることには間違いない。かつて八幡町に設置されていた垂直軸風車とは異なり,水平軸プロペラ式。小型風力ウィンドパークというものらしく,ボディにはZephyr9000の文字。定格出力4.9kWという。
ここからおよそ1.5km離れた小谷の高台には2014年末から稼動している厚田市民風力発電の2基の風車が周囲を睥睨するかのようにそびえている。こちらは1基で2000kWという桁違いのバカでかさ。
そういえば去年(2015年)5月古潭港に車を置き,押琴の浜伝い(崖の上から見る)に歩いて小谷の沢沿いのつづらおれの崖を這い上がって国道に出たことがある。古潭港に戻る途中物好きにも巨大風車を間近で見たくなって汗をかきながら高台まで歩いた。折しもなにやら作業中。近づいた年寄りを見る目には胡散臭いものを見るような警戒の色がありあり。市民風車を名乗るわりにはフレンドリーの欠片も感じられず,印象を悪くしたことをいまでも覚えている。
実は風景としての風車(かぜる,かりんぷう,かなみ)を好きだった私なのだが,それ以来巨大風車には馴染めなくなった。
[追記] 2017.01.09 その後の小型風車 : 16/12/28 古潭港防波堤から。17/01/08 国道から,夕日に染まる空を背に。
[追記2] 2017.02.05 朝陽を受けて,古潭八幡神社と。
[追記3] 2017.03.02 無愛想でひたすらデッカい小谷の市民風車と。
[追記4] 2017.04.02 ををっ,初めて廻っている姿を見た。静止画像ではもとより分からないけど,4基ともなんと元気なこと。この回転速度では低周波音ではなく高周波音に間違いない。
[追記5] 2018.02.02 群来はハズレたが,古潭港防波堤から。こうして風車たちが海を背として陸を向くのはまさしく群来の風なのだが。 |
CS |
2012.10.02 |
森林基幹道浜益実田線(民有林林道浜益実田線) [位置図]
黄金山登山口休憩所のトイレの項でも触れたが,2008年以来石狩市内の林道を走るのも楽しみのひとつにしている。浜益実田線は,幅員4m,延長12.5km。既設林道との連絡を図り,効率的な森林施業を展開することを目的として整備するとのことで,事業期間は2001年度から2016年度。途中ときおりの黄金山,愛冠岬などの眺望が素晴らしい。
浜益側の入口は国道231号 Cafe gull から700mほど群別寄りにある。いつ行っても工事中で途中で引き返す羽目に陥ったが,2012.10.02 実田側は未舗装ながら初めて全線を走り抜けることができた。その時立っていたのがこの看板。なお,実田(於札内)側出口には判読の難しい古い標識で”群別線”とある。
2007-2008年度,(社)北海道治山林道協会が実施した”北海道民有林治山林道100選”において,選考された林道部門40点の中でも『銀賞』を受賞(2009年)したことの証し。ちなみに40点の中には石狩市ではほかに”広域基幹林道古潭越線”も選ばれている。
先日(2017.06.17)久しぶりに走ってみると,全線が舗装化されてとても快適な林道だった(クマは出るかもしれない)。
石狩市内でお勧めな林道を3つあげるとすれば,この浜益実田線(旧浜益村),古潭越線(旧厚田村),そして五の沢線(旧石狩町)だろうか。いずれも全舗装である。
(2017.06.25 記) |