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土木学会選奨土木遺産
茨戸川の岡﨑式単床ブロック護岸
2016.05.01 公開
2021.09.20 更新
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文化庁文化財第二課の編集による『近代遺跡調査報告書 -交通・運輸・通信業- 第二分冊』が刊行されました。
鉄道,道路,橋梁,隧道,港湾を除く,倉庫,灯台,運河,河川・堤防,飛行場,郵便,電信,電話,その他に含まれる合計77遺跡の調査結果がまとめられています。
その中に,河川・堤防 17遺跡のうちのひとつとして,私の担当した「石狩川・茨戸川コンクリート単床ブロック護岸」の調査結果が含まれています。
まずは速報をご覧ください。
(2019.04.02)
詳しい内容は 保存庫【Ⅺ】 をご覧ください。
(2019.04.05)
お断り
今年はさる事情から単床ブロック護岸についてかなり詳しく調査する機会に恵まれ?ました。(Topicsを参照してください)
その結果,このページの記述にはいくつかの誤り,ないし消化不良があることがわかりました。
いずれできるだけ早い機会に訂正したいと思います。
それまでの間は,ページ内に誤りがあるということをお含みの上閲覧して頂ければ幸いです。
(2017.11.10)
2018.04.09 序文の修正,および単床護岸施行位置図を追加
2018.07.03 単床ブロック位置図の更新 (図①A,図①B,図②A,図②B),および目次の入れ換え
2018.11.14 伏古別地区,花畔地区,親船地区,八幡地区 を追加。経緯は Topics 参照。
どの箇所をどのように修正したのかについて文中にいちいち記述することはとっても面倒です。
旧ページに修正前の2017.11.10更新版をリンクしてありますので,修正箇所などを確認なさりたい方はそちらも合わせてご覧ください。
お断り
このページに含まれる遺構は,茨戸川のみにとどまらず本流の石狩川河口近くの両岸にも広がっています。
ですから,ページのタイトルは
『茨戸川,石狩川の岡﨑式単床ブロック護岸』
とすべきと考えますが,土木学会選奨土木遺産として認定されたタイトルをそのまま継承することにします。
(2018.11.14)
遺構の見学(調査/観察)の際に注意すべきこと (2018.11.14)
(1) 茨戸川も含め,現地は石狩川河口近くの最下流部に当たる感潮域です。融雪,降雨による水位変化に加えて,石狩湾の潮位の影響をもろに受けます。
事前に石狩新港の潮位観測情報をチェックし,潮位が十分に下がる(理想的には0cm以下)と思われる時間帯に臨むべきです。(一般的には,高気圧下の干潮時)
(2) 現地は多くの場合ヤブに閉ざされています。接近するには雑草が繁茂する前の4,5月が適期です。それを過ぎると厳しいヤブ漕ぎを強いられます。
(3) 水際で段差,傾斜がきついところが多いので,それなりの服装で臨むことが必須です。長靴,手袋,帽子などの準備は怠りなきように。くれぐれも川に落ちたり流されたりしないでください!
単床ブロックはコンクリートの直方体ブロックを鉄線ですだれ状に連接した河川の護岸材料。(ヨーカンブロックとも)
1909(明治42)年,岡﨑文吉により”屈撓性混凝土単床”として考案される。
1898(明治31)年9月,石狩川流域を襲った大洪水では118名の死者が出る。さらに1904(明治37)年6月にも大洪水が発生する。石狩川の治水は急務となった。
岡﨑文吉は北海道庁が発足させた治水調査会の中心となって11年の歳月をかけ「石狩川治水調査報文」をまとめる。それを根幹として1910(明治43)年北海道第一期拓殖計画が開始される。
岡﨑文吉は石狩川治水事務所の初代所長となり,石狩川治水計画に着手。みずから”自然主義の河川哲学”と名づけた河川観のもとに,現河道をできるかぎり保存しようとする方式に基づいていた。流水により激しく浸食される下流部湾曲部外側(凹岸)の護岸材料として岡﨑により考案されたのがコンクリート単床ブロックである。
1910(明治43)年から1916(大正5)年にかけて花畔,ビトイ,伏古別の3地区(いずれも現・茨戸川)が決壊の長さや湾曲の度合いが著しいことなどにより選定され単床ブロック護岸が施工される。
1917(大正6)年,花畔付近での石狩川護岸工事は竣工となる。1918(大正7)年,生振捷水路工事が着工され治水の柱は新水路工事(ショートカット)にシフトするが,大正から昭和初期にかけて湾曲部や新水路両岸に単床ブロック護岸は継続して施行され続けた。そして100年を経た今でもその一部は現存し,護岸機能を果たしている。
単床ブロック護岸は,経済性,耐久性,さらに構造が柔軟で原始河川の河岸に敷設する適応性(施工性)に優れていたと考えられる。
この護岸はその後も道内,国内はもとより海外(ミシシッピー川など)にも普及し,その技術は現在においても継承されているという。
目次
(場所) (施工位置番号) 1 石狩川護岸工事 起/終点標 現・茨戸川 2 明治43年~大正6年施工の単床ブロック護岸 現・茨戸川 ①,②,③ 3 大正8~10年に施工された単床ブロック護岸 親船矢臼場,八幡町 ④,⑤ 4 昭和10年前後に施工された単床ブロック護岸 茨戸締切堤防および観音橋 ⑧ 若生矢臼場 (new) ⑦ 5 昭和40年代に施工された単床ブロック護岸 石狩河口橋直下 ⑨ 6 そのほかの単床ブロック護岸 五の沢池 川の博物館での展示
単床護岸施行位置図 (2018.04.09)
北海道開発局刊行の『石狩川治水の曙光-岡﨑文吉の足跡-』には,単床護岸が施行された位置を示す2枚の図面が掲載されている。
施行位置番号 A p.211 初期の単床護岸位置と河道変遷 明治43 ~ 大正6 ①,②,③ B p.217 下流部の単床護岸位置図 大正8 ~ 昭和5 ④,⑤,⑥,⑦ ただし,施行位置番号①~⑦は筆者による。
これら2枚の図面を Google Earth の現在の地形に重ねあわせてみた。
そのほか,上図中の”五の沢池”でも護岸に単床ブロックが施工されているのを観察できる。
□□□ 1.石狩川護岸工事 起/終点標 (図①) □□□ [関連ページ]
標柱が立っているのは現在の茨戸川右岸堤防上。次項で記す”伏古別”地区の工事についての標柱である。
石狩川護岸工事は
起点標柱によると,1916(大正5)年度着手となっている。
終点標柱によると,1917(大正6)年度竣工
それを記念する最初に立てられた標柱(花崗岩)はいつしか倒れ,忘れ去られていたものと思われる。
1989(平成元)年工事中に発見された旧標柱を台座中央にガラスで覆って埋め込んだ現在の標柱は,1992(平成4)年に再建されたものである。
(2016.04.22)
□□□ 2.明治43年~大正6年施工の単床ブロック護岸 (図①A) □□□
明治43年から大正6年にかけての単床ブロック護岸の施工実績は下表の通り。(単位はm)
大正5年までは岡﨑自身が指揮をとったが,岡﨑が去った大正6年も伏古別地区では継続して施工されている。
使用されたブロックは146万個を数える。
年度 花畔 ビトイ 伏古別 計 明治43 922 0 0 922 明治44 819 0 0 819 明治45 0 783 0 783 大正 2 95 688 0 783 大正 3 108 675 0 783 大正 4 553 284 0 837 大正 5 432 0 468 900 大正 6 0 0 1,080 1,080 合計 2,929 2,430 1,548 6,907
◆◆◆ (1) 伏古別地区 (図①B) ◆◆◆
単床ブロックによる護岸は起/終点間で施工されたに違いないが,現在そのすべての区間で見られるというわけではない。
河岸洗掘が激しい部分では,鋼矢板などによる新たな護岸がなされていたりする。
私が4月22日にとりあえず確認した区間は,生振11号樋門のやや下流域。(図①B参照,Aの区間))
長さ200数十mにわたって幾分途切れつつもずっと見ることができた。
(区間の上流から下流,下流から上流)
このあたりの岸辺はヨシ類やイタドリ,その他の雑草ですっかり被われている。
それらが芽出し前かまださほど伸びていない4,5月なら余裕で歩けるが,6月の半ばを過ぎると薮漕ぎが大変になるだろうし,うっかりすると足を踏み外して川に転落しかねない。
(6/26 の川辺。とても確認できそうもない)
また樋門のやや上流にカワセミの営巣ブロックが設置されている。
5月にもなると子育ての時期にもなると思われるので,静かに見守ってあげたいものだ。
(2016.04.22)
2016.06.24 開発局札幌河川事務所により開催された”石狩市内の治水施設見学会”に参加。
上に記載した単床ブロック(図①B の A区間)は戦後(昭和40年代)に改修されたということである。
この日は大正時代の原形のままで残っているという箇所に案内された。(図①B の B点)
最初はバスで堤防を走って現地へ。この日のために草が刈りはらわれていて陸上からブロックを眺める。
次に調査船弁天丸に乗船。最初下流に向かい,運河を出て石狩河口橋下でUターン。
戻って上流に向かい目的のブロック・ポイント(B点)まで往復。(この日の弁天丸航路)
云われて見ると確かにA区間は思いのほか整然としている印象だったのに対し,B点のブロックはガタガタでまともに機能しているのかどうか・・・
壊れていても改修など後の時代の手が入っていないということをもって,この部分のブロック(のみ)が土木遺産に認定されたということなのだろうか?
ここらへんに若干疑問の余地が残る。
なお,上の陸上からの写真は後日(6/26)出かけて撮りなおしたものである。
2017.04.27 文化庁の近代遺跡調査の対象に選定されたという(詳しくは,Topics を)。
昨年,治水施設見学会で案内された箇所(図①B の B点)を訪れてみた。
保存,保全の状況は必ずしもよいとはいえない。
ついでにこの箇所から生振11号樋門までの間(図①B の A区間)を歩く。
(2018.11.14)図①B の B点ではブロツクの連結はかなり崩れていて,護岸の機能はほとんど失われていると思われる。
図①B-B点
図①B-B点
図①B-A区間
図①B-A区間
(ブロックのサイズは,おおよそ 15cmX15cmX60cm)
図①B の A区間では整然と敷設されていて,ブロックの表面もくたびれていない。
2018年調査 文化庁の近代遺跡調査の遺構の確認はこの時期を逃すわけにはいかない。(詳しくは,Topics 4/25版,5/11版)。
その後
◆◆◆ (2) 花畔地区 (図①A) ◆◆◆
2019.05.23 更新・差替済
(クリックして拡大)
Google earth の背景画像は
2015/6/12
釣り人の日傘が2つ写っている左岸・花畔地区は後背地のほとんどが市街化されている。
そのため近年の護岸が進み,護岸が未施工なのは花畔大橋の下流の僅か70mほどの区間である。
明治末から大正にかけて施行された最初の単床ブロック護岸の遺構を見られるとしたらそこをおいてほかには可能性がない。
薮を漕いで調査したのは,4月から5月にかけてと,10月。
それにより,左図のA,B,Cの3点で遺構が確認された。
また,花畔大橋の直下のD点でも,水位さえ下がっていれば比較的容易に見ることが可能である。
さらに,花畔大橋の下流側歩道上からも水位の低い時には覗き見ることができる。
(2018.11.14)
今年(2019年)訪れた際,花畔大橋の上流側でも遺構を確認できた。左図のE点。
普段天気がよければ釣り人に占拠されていて,釣り目的ではない変な年寄りはなぜか近寄りがたい。この日(4/10)はたまたま誰もいなくて水辺に近づき発見できた。
(2019.05.23)
□□□ 3.大正8~10年に施工された単床ブロック護岸 (図②A) □□□
[訂正]
この項目は,資料の読み間違え&早とちりで,以前のページでは
4.昭和20年代に施工された単床ブロック護岸
として記述していましたが,正しくは大正年代の施工でしたので目次の 3.と 4.を入れ換えました。
(2018.07.03)
◆◆◆ (1) 親船矢臼場 (図②B) ◆◆◆ [関連ページ]
石狩川は矢臼場のあたりで大きく右に流れを変える。最後の蛇行である。
湾曲の外側にあたり浸食が激しい左岸では戦前から併行水制縦工(平行工)が施工されていた。
1951(昭和26)年には戦後はじめての単床ブロック護岸工事も行われた。
戦後まもなくの物資不足の時代を反映してかそのほとんどは毀損し機能を失っているが,その残滓をいまなお見ることができる。
赤井川樋門の出口にはいつもある程度の流れがあり,湿地帯も広がっている。
夏の季節にはヨシ類の繁茂と合わせて,近づくのには十分な注意が必要である。
(2016.05.02)
やや離れるがここより下流の船揚場近く(図②B の A点)にしっかりとした併行水制縦工(平行工)が見られ,水制と川岸の現護岸との間にも単床ブロックの遺構が見られる。
ただしここは完全な水中なので,川の水位が十分下がっていなければ見られない。
2016.05.02にはほとんど確認できなかったが,2015.11.23,および 2015.12.09 の状況を付記する。 [関連ページ]
直角水制(横工)
矢臼場に施工された護岸水制はほとんどが川岸に沿った併行水制縦工(平行工)であるが,同時に川岸からほぼ直角に突き出た水制・横工も3ヶ所ほどで確認できる(図②B 参照,■印のB,C,D)。
(2016.05.02)
2018年調査
(クリックして拡大)親船を含む本町地区の市街地築堤事業は昭和48年度から58年度にかけて実施され,それに付帯して船着場,船揚場など延長650mほどの護岸が整備された。
結果,この区間には大正年代の単床ブロック護岸遺構は見当たらない。
下流端に石狩渡船場跡があるが,そのすぐ近くに水制遺構が存在する(A地点)。おそらく,単床ブロック護岸の洗掘を防ぐ目的で設置された水制が遺されたものと思われる。
さらに船揚場の上流およそ60~90mほどのところに,水制と単床ブロックとを同時に目視できる遺構がある(B地点)(水位が下がっていることが条件)。⇒詳しくはコチラ
(これらの水制の施工時期は不詳である)
(2018.11.14)
◆◆◆ (2) 八幡町 (図②A) ◆◆◆ [関連ページ]
(クリックして拡大)八幡町地区では昭和63年8月の集中豪雨被災を受けてその復旧工事として護岸工事が進められた。船着場,船揚場合せて延長800m。
大正年代に施工された単床ブロック護岸区域の上流側2/3以上に及ぶ。
結果として当時の護岸の遺構は,現在の護岸の両端から外れた部分で損壊した残骸以外には見当たらない(A,B地点)。
2017.10.24 A地点で残骸の中から拾い上げてきた標本がコレである。(Topics)
下流側には,昭和10年代に施工された第一号水制,第二号水制が現在でも機能していて,右岸の浸食を抑えていると思われる。
第一号水制のやや下流に謎の水制遺構が見られるが,単床ブロック護岸の爪先部洗掘を防ぐために設置されたものと考えられる。
(2018.11.14)
□□□ 4.昭和10年前後に施工された単床ブロック護岸 □□□
◆◆◆ (1) 茨戸締切堤防および観音橋 ◆◆◆ (図①B)
1931(昭和6)年生振捷水路が通水されると,旧川(現・茨戸川)は切り離されてほとんど湖沼化(三日月湖)する。
1935(昭和10)年前後,流れのなくなった旧川を右岸から埋め立て(締切堤防),生振住民の悲願だった橋がかけられる(観音橋)。
この締切堤防の両岸,および観音橋周辺でも単床ブロック護岸が施工されていて,現在でも容易に見ることができる。
(2016.04.22)
◆◆◆ (2) 若生矢臼場 ◆◆◆ (new)
位置図 (クリックして拡大)新水路(生振捷水路)完成後の昭和6年以降,新水路の下流右岸で単床護岸工事が施行されたことになっている。
この若生矢臼場地区は,昭和26年,戦後はじめての単床護岸工事が施工された部分とほぼ重なっている。
現時点では,石狩川右岸堤防上・北生振七号樋門の排水路出口左側に単床ブロックを見ることができる。
確認できる長さはたかだか15m弱と短いが,かなりしっかりと形が残っているので,施工されたのは昭和26年,あるいはそれ以降と考えられる。
(お断り) 8/30 Yさんからここでも見られたよ,と教えていただいた。すぐに確認してきたのが上の画像である。
北生振七号樋門出口あたりは2009年4月になんどか訪れている。石狩河口橋の脇に落ちる夕陽を撮るためにである。
それ以降も揚水機場やいしかり調整池などにはしばしば足を運んでいる。
しかし当時はまだ,単床ブロックはまったく目に入らなかった。
このページではこれまで,現在見られる単床ブロック施工箇所を,茨戸川および,石狩川の志美運河より下流域に限定していた。
やや逡巡もあったが,しかしここも紛れもなく石狩市域。ということで,あらためて加えることにする。Yさん,ありがとう。
(2021.09.19)
□□□ 5.昭和40年代に施工された単床ブロック護岸 (図②B) □□□ [関連ページ]
石狩河口橋は1967(昭和42)年第一期工事着工,第二期工事も竣工したのは1976(昭和51)年である。
斜張橋部分は第一期工事で施工され,左岸側主塔直下の左岸低水路護岸として単床ブロックが採用されている。
ごく一部破損してはいるものの,主塔下の岸辺に立つと整然と並んだ単床ブロックを見ることができる。
また,河口橋には下流側に歩道がついているので,左岸側主塔近辺まで歩いて下を覗くと単床ブロックの別の表情がある。
石狩河口橋の上から
(2016.05.02)
□□□ 6.そのほかの単床ブロック護岸 □□□
◆◆◆ 五の沢池 ◆◆◆
五の沢池は知津狩川上流の支流に1930(昭和5)年に作られた灌漑用の貯水池であり,石狩川治水に直接関係はない。
取水口近辺の法面上部に単床ブロック護岸が施されている。
この護岸が,1930年の貯水池造成時に同時に施工されたものかどうかは定かではない。
五の沢池より規模が大きいが,同時に造成された高富貯水池の護岸にも単床ブロックが用いられているかもしれない。
(2018.11.15)
このページについてお気づきのことがありましたらお知らせください
旧ページ (2017.11.10更新版)
石狩の遺産・目次