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石狩川河口右岸の遺構群

2015.08.22 公開
2017.07.05 更新

石狩川河口右岸遺構マップ
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2015.09.03 差し替え
(Gの領域をより正確に)
遺構探索ルート
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2015.08.25

遺構群
@ 第一号水制 河川(治水)事業 昭和09〜11 100m 捨石工,石枠工
A 第二号水制 河川(治水)事業 昭和12〜14 130m 捨石工,石枠工
B 第三号水制 河川(治水)事業 昭和25 140m 並杭工,捨石工,石枠工 昭和46大雨で被災
C 第四号水制 河川(治水)事業 昭和32 84m 並杭工,捨石工
D 第三突堤 石狩港修復事業 昭和45 80m 並杭工 昭和37施工の120mが埋没
E 第一突堤 石狩港修復事業 昭和46 125m 並杭工 昭和34施工の80mが被災
F 波浪観測所跡 石狩港修復事業 当初「砂丘の上の基礎」としていたが,項目名変更 (2016.10.21)
5m x 5m ほぼ正方形のかなり毀損したコンクリート基礎が残る
G 広く平坦な裸地 石狩港修復事業 直径約40m. この部分だけ海浜植生がほとんど生えていない
現在も機能している構造物
中村水制工 河川(治水)事業 昭和47 90m 鋼管工 第三,四号水制の
災害復旧事業
来札水制工 河川(治水)事業 昭和47 130m 鋼管工
第二突堤 石狩港修復事業 昭和35 180m 並杭工,テトラ工
河口導流堤 石狩港修復事業 昭和36〜48 630m
2基の離岸堤 河川(治水)事業 平成13 71.4m x 2
(間隔30m)
補足
水制工
石狩港


2015.11.19 第一号〜第四号水制・再訪


この日のルート
歩きはじめ,GPSロガーのSWを入れ忘れ軌跡が残らなかった部分は推定した。
気象庁のリアルタイム潮位情報を見て,高気圧に覆われたこの日,石狩湾新港の潮位がかなり下がっていることを知った。石狩川河口の水位は石狩湾新港の潮位とほとんど変わらない。
前回(8/20)は水制がほとんど水没していたが,今回(11/19)は見られるかもしれない。


8/20

11/19
左図は石狩湾新港での潮位のグラフである。
8/20 に歩いたのは 12:00 前後。
11/19 に歩いたのは 14:30 前後。
潮位はおよそ 35cm ほど下がっていることが分かる。

第一,二号水制はほとんど露出していた。
さらに第一号のやや下流の干潟化した浅瀬に,マークしていなかったもうひとつの謎の水制があったことも判明した。
第三号水制は先端部の僅かしか見られず,第四号にいたっては砂に埋もれたらしくまったく見られなかった。



@ 第一号水制

2015.08.20

2015.08.20

2015.08.20

2015.08.20

2015.11.19

2015.11.19

2015.11.19

2015.11.19

2015.11.19

2015.11.19 (謎)

2015.11.19 (謎)

2016.03.15

2016.12.08

2016.12.08

2017.02.13

2017.02.13
2015.08.20

第三号水制以降で見られる木製の並杭は見られない。
岸辺でははっきりと捨石工を確認できる。
水中部分はまだその形体が残っていて浅いものと思われ,数本の大きな流木が引っかかっている。
現在でもある程度の水制効果を維持しているものと考えられる。

ちょうど第一号水制の前後で雨にたたられる。
デジカメのレンズに雨粒がついてちょっと口惜しい。

2015.11.19

前回に比べ,岸辺近くでは捨石工が完全に露出している。
石伝いに先端方向へおよそ50m弱進んでみることができた。

また第一号水制の約70m下流にもきちんと木杭のならんだ謎の水制が施工されていたことが判明した。
川の中心方向へ直角的にではなく,かなり鋭角的に上流方向への角度で並んでいる。

2016.03.15

早春のまだ雪が深い水制の風景。
水位が高く波もあって,岸辺すぐ近くの捨石工が確認できるだけ。

2016.12.08

早春に続いては,流木もシバレつく冬。やはり水位は高かった。
(Topics もご覧ください)

2017.02.13

干潮時で水位も5cm程度と下がっていたので,かなり露出している。
第一号水制から第二号水制の間では,川岸から30mほども氷が張りだし,さながら大氷原帯
この辺りは干潟ヨシ原(いずれも2015.11.19))が広がってもともと浅瀬ではあるが,氷にはたくさんの亀裂が走る。
誤って踏み抜くと膝の上まで嵌まって,一瞬青ざめる。


A 第二号水制

2015.08.20

2015.08.20

2015.08.20

2015.08.20

2015.11.19

2015.11.19

2015.11.19

2015.11.19

2017.02.13

2017.02.13
2015.08.20

ここも木杭はなく,また捨石工も確認できなかった。
もう少し水位が下がった時に訪れる必要がありそう。
それでも第一号水制同様川中に3本ほどの大きな流木が引っかかっている。

その流木の上にサギたち(ではなくて,これはウミウたちでしょうか?)がほぼ等間隔一列に並んで憩っているのが微笑ましい。
このページをまとめるにあたって,まだ未確認の第一,二号水制に迫ることは不可欠だった。
来札水位観測所の近くに駐車し,川岸に下りる。
ここからたちまち悪戦苦闘の連続だった。
難敵のひとつは,水際に流れ着いた大量の流木の山。不安定な足場の上をおっかなびっくり歩く。
もうひとつは,背丈をはるかに超えるヨシの密生。方向に狙いを定めてかきわけかきわけ歩く。
たまに開けたところで,ナミキソウツルリンドウオオマルバノホロシエゾイヌゴマエゾミソハギなどに癒される。
2015.11.19

第二号水制も前回に比べてはっきりと姿を現していた。
しかし全体的に第一号よりはやはり水没気味で,先端方向へ進むことは断念せざるを得なかった。

2017.02.13

干潮時で水位5cmくらいと思われたが,すっかり水没していた。
背後の雪の中には,見捨てられた廃バスが。かつては漁師の物置代わりに使われていたのだろうが,これもまた遺構のひとつか?


B 第三号水制

2014.09.27 空撮

2014.08.27 (a)

2014.08.27 (b)

2014.08.27 (c)

2015.11.19 (d)

2015.11.19 (e)

2015.11.19 (f)
2014.08.27

聚富川河口の中村水制工から,知津狩川河口の来札水制工を経て河口導流堤へと至る石狩川下流方向へは何度か歩いている。
この日は中村水制工から上流,八幡町舟揚場方向へと初めて歩いてみた。

中村水制工から150mほど歩いたあたりで遺構を発見。
木製の杭を並べ打ちしたかつての第三号水制に間違いない。

(b) は,水面すれすれで晒されている杭の頭をとらえてみた。
(c) も水制工の関連設備と思われるのだが,定かではない。

この日はさらに進んで,第一,二号水制にまで迫りたかったのだが,水際のヨシの繁茂に遮られてここまでで断念した。

ちょうど1ヶ月後,ヘリコプターに搭乗する機会を得て上空から撮影した遺構の写真も加えた。

2015.11.19

汀線が前進,堆砂もあって確認できる杭の数は少ない。
関連施設なのかもしれない (f) もかなり埋まっている。


C 第四号水制

2015.04.01 (a)

2015.04.01 (b)
2015.04.01

石狩川口灯台の痕跡を見つけようと,今年(2015年)は来札水制工と中村水制工の間を5,6回うろつく。
そんな中で新たに発見。
過去にも数回歩いたことがあったのだが気づかなかった。

ただし水位がやや高い時に訪れると完全に水没して確認できないようだ。

2015.11.19

この日第四号水制だけは確認できなかった。
堆砂に完全に埋まってしまったものと思われる。


D 第三突堤

2009.05.10

2010.06.07

2010.06.07

2010.06.07

2013.09.12

2013.09.12

2014.11.05

2014.11.05

2014.11.05

2015.09.03

2015.09.03

2015.09.03

2015.12.12

2016.08.27

E 第一突堤

2009.05.10

2010.06.07

2010.06.07

2011.06.15

2013.09.12

2013.09.12

2014.11.05

2014.11.05

2014.11.05

2015.09.03

2015.09.03

2015.09.03

2015.12.12

2016.08.27
第一,第三突堤に関して

来札水制工の下流,河口導流堤までの間は2009年以来ほぼ毎年歩いている。
ここで2ヶ所,明らかに水制工の残骸と思われるものがあるのを確認していた。
しかし,河川(治水)関係の書物にはこれらに関する記述がまったく見当たらず,謎だった。
今年(2015年)ようやくその謎が解けた。
これらは石狩港修築事業の中で”突堤”の名で施工された港湾関連施設だったのだ。
役割は水制工そのものでもある。

2015.12.12

干潮と高気圧により水位が下がって,対岸,左岸河口砂嘴の先端からでも第一,第三突堤とも木杭が明瞭に確認できた。


F 砂丘の上の基礎 改め 波浪観測所跡

2014.11.05

2014.11.05

2014.11.05

2014.11.05

2015.09.03

2015.09.03

2016.08.27
2014.11.05

凹凸のある中で砂丘のもっとも高いと思われる位置に周囲の光景となじまないコンクリート構造物があるのに気が付いた。
ほぼ5m四方の正方形。かなり崩壊している部分もあるが,明らかに建物の基礎の残骸と思われる。
これがなにの残骸なのかしばらくは謎だった。
石狩港修復事業を始めるに際して,それ以前の昭和31年から北海道開発局は河口周辺海域の調査を行っている。
さらに2015年8月,小樽開発建設部の職員として昭和41,2年ころまで導流堤工事に関わっていたという方からお話を伺うことができた。
工事に着手する2年ほど前から,小高い砂丘の上に2階建ての「波浪観測所」が建てられ,データを集めていたらしい。
可能性としては,その建物のコンクリート基礎ではないかと考えるのが妥当だろう。

2015.09.03

やや慎重に測り直してみると(といっても,1mの目盛をつけただけの杖でだが),どうやら5mx7mくらいの長方形のようだ。
昔の尺度で言えば,2間半x3間半といったところだろうか。
標高5mほどの砂丘の上に立つ2階建で,”波浪観測塔”とも呼ばれていたらしい。

2016.10.21

石狩湾新港東埠頭にひときわ高い建物がある。”小樽港湾事務所観測塔”ということである。
全国港湾海洋波浪情報網(リアルタイムナウファス)が整備されている現在でも,常時肉眼で波浪観測しているとは思われない。
また,脇を通ってもほとんど人の気配は感じられない。
それでもこの観測塔は新港建設の当初から河口右岸砂丘の上にあった観測塔の機能を引き継いだものだったに違いない。
と思うとが騒ぐ。
無断ながら,観測塔の外寸を測ってみた。外外で5m強四方のほぼ正方形。
砂丘の上の基礎の残骸とほとんど変わらない大きさなのだ。
これであの残骸が波浪観測塔の痕跡であることをほぼ確信した。

10月のある日,石狩郷土研究会顧問の田中實氏から,『昭和34年度 石狩港調査報告書』なる冊子を借用する。
小樽開発建設部により,石狩港改修へ向けてのさまざまな調査結果がまとめられている。
(この時点では石狩湾新港計画は浮上していない)
冊子に綴られた最初の図面「石狩港平面図」を見て鳥肌が立つ。
明瞭に”波浪観測所”の位置が示されているのだ。(部分コピー)
公的資料で”波浪観測所”が明記されているのを見るのは初めてだった。
位置も第一突堤の付け根近くで,まさに砂丘の上の基礎の位置とピッタリ符合する。
ようやくこのコンクリート基礎の残骸が,かつてあった”波浪観測所”の跡であることが確定したのである。


G 広く平坦な裸地

2014.11.05

2014.11.05

2014.11.05

2015.09.03 (a)

2015.09.03 (b)

2016.08.27
このあたりはハマナスをはじめとする海浜植生などが密生したブッシュに覆われている。
にもかかわらずこの部分だけ人工的な平坦な裸地となって広がっている。
修復事業の大半は石狩河口橋の開通前で,人の行き来は渡船に頼っていた時代である。
車両にいたっては,河口にもっとも近い橋といえば江別市の新石狩大橋である。
ここは建設作業員の宿舎(飯場)などが設置された場所の跡ではないだろうか。
これらは毎年作業開始前に建てられ,作業終了後には撤去されていたようだ。
さらには生コンから根固ブロックやテトラポットなどを打設するためのヤードとしても使われていたのかもしれない。
2015.09.03

(a) はFの砂丘の上から見下ろす。
(b) チラホラとススキの大株や,カシワ,アキグミなどのブッシュも見られるが,おそらく修復事業終了後に根付いた植物たちだろう。


C) 第二突堤

2014.11.05

2014.11.05

2015.09.03 (a)

2015.09.03 (b)

2015.09.03 (c)

2016.08.27
第二突堤は第一突堤とほぼ平行,導流堤の基部になっていてしっかり現役の構造物である。
下部の古いテトラポットはほとんど砂に埋まっている。
その上に新しいテトラポットが積み上げられている。
2015.09.03

(a) 突堤の先端方向を望む。この先端からほぼ直角に近い角度で導流堤が伸びる。
前回に比べてこの日はやや水位が高く,また,波も荒かった。
(b) 同じところから振り返って突堤の付け根方向を見る。すぐに砂に埋没している様子がわかる。
(c) 導流堤へ向かって誰がつけたというわけでもなく,みんなが走るから勝手にできたのであろう車のケモノ道
その路面にコンクリート片が顔を出している。
突堤の付け根近辺がすっかり砂に埋まり,その上を車が横切って走っているのだ。(遺構マップ参照)
サケたちが生まれ故郷に帰りはじめる頃だが,監視車がずっと張りついている。
間違った考えを起してはいけない。




■■■ 水制工 ■■■

■ その名の通り水の流れの勢いをそぐことにより河岸の浸食を防ぎ,同時に澪筋(流心,流水の主たる水路,水深が深く船舶の航路となる)を川の中心方向へと押し出すことを目的として設置される。
河岸から川の中心方向へ向かって直角に近い角度で突き出している工作物である。
流水を通す透過型と,流れを阻止する非透過型とがある。

■ 一般に河川の湾曲部では外側に水の流れが集中し河岸を浸食する。
石狩川河口の石狩湾への流出部では,右岸が湾曲部外側にあたり浸食され続けてきた。

■ 大正8年着工された生振捷水路工事により,漁業被害の増大,河口への土砂堆積による船舶の遭難続出を怖れた石狩町では,厚田,浜益両村とともに昭和3年以来,道や政府に対し左岸直水路掘削を要請するなどの建議,請願を繰り返してきた。
しかしその実現を見ないまま昭和6年5月には生振捷水路が通水され,石狩町では河口の改修工事を請願する。
その結果昭和9年”来札導水堤”が着工になる。
これが石狩川治水の第一号水制ともいえるものであり,9年40m,10年25m,11年35m,合計総延長100mで完成した。
引き続き昭和12〜14年には300m下流に第二号水制130mが完成している。
戦争末期〜敗戦直後の治水事業の空白時代を経て,昭和25年,32年に第三,第四号水制が施工された。
昭和46年9月の出水により第三,第四号水制が被災。
昭和47年災害復旧工事として中村/来札水制工が鋼管杭打工として施工され現在に至っている。

■ 右岸が浸食されるに伴って左岸砂嘴が伸長しつづけてきたのだが,昭和20年代に入ってから砂嘴の伸長はほとんど止まっている
これは水制工の本領が発揮されたからと考えてもよさそうだ。
昭和34年着工,48年完成(打ち切り)の河口導流堤は,砂嘴の伸長を抑えることに実は直接的にはさほど寄与していないのかもしれない。
平成27年度土木学会選奨の土木遺産に,茨戸川の岡崎式単床ブロック護岸が認定されたという。
石狩市としては,平成14年度の生振捷水路に次ぐもの。
歴史的土木構造物としてこれからも保存されるべき貴重な遺産に認定されたことは嬉しいこと。
ならばさらに欲をかいて,第一,二号水制も土木遺産として認定されるにたる十分遜色のない構造物であるということを訴えたい。

私の推定では600〜800年かけて矢臼場のあたりから4kmほども伸びてきた大河石狩川の左岸河口砂嘴。
昭和10年前後に施工されたこれらふたつの水制工は,右岸の浸食を抑え,ひるがえっては左岸砂嘴の伸長を押しとどめた。
河口部の河道変動を抑制することにおいて,おおいに寄与した事実は紛れもない。
もちろんこのふたつの水制工の力だけでなしえたものではなく,昭和20年代以降に施工された水制工や導流堤が同時に果たした役割も大きい。
とはいえいま,第一,二号水制を現地で見るにつけ,地味ながらこれらがいかに貴重な遺産/遺構であるのかを思うのである。

2015.11.20


■■■ 石狩港 ■■■

■ ”石狩港”の沿革

昭和28年 地方港湾に指定
取扱貨物量1万4千トン(水産物と木製品の移入)、出入船舶6,800隻
その後 取扱貨物量は激減
 ・ 上流部の治水事業の進捗による河口水深の不安定
 ・ 沿岸漁業の衰微
 ・ 道路網の整備
昭和34年 港湾修築事業開始 = 導流堤着工
昭和48年 港湾修築事業終了 = 導流堤工事打ち切り
石狩湾新港建設工事が始まる
重要港湾に指定
これがよく分からない。石狩湾新港との抱き合わせ指定なのか?
平成12年 地方港湾に変更指定

■ そもそも”石狩港”とはどこを指す言葉なのだろうか・・・?
行政上の語彙の理解に乏しいわれわれ一般人には難問なのだ。

私自身ついこの間まで,”石狩港”といえば左右岸に設置された石狩本町,八幡町の船着場(桟橋)のことだと思っていた。
しかしどうやらそれは”港”とはいわないらしい。
堤防などの護岸に付帯する漁業の便宜のための河川施設ということのようだ。

”港”といえば船舶が接岸・係留する岸壁(埠頭)とか,貨物の荷役・保管施設とか,旅客の乗降用施設などの風景を思い浮かべる。しかしここにはなにもない。

■ では”石狩港”とはどこなのだ?

北海道開発局による港湾施設の定義によれば,石狩港とは次のようになっている。
【石狩灯台(北緯43度15分16秒,東経141度22分3秒)を中心とした2,500mの半径を有する円内の海面】

えっ!”石狩港”って海面だけなの?
どうやらここらへんにもかつて港湾行政と河川(治水)行政との綱引きというか,力関係が反映されていたようで,少しでも川(つまりここでは石狩川)に入ったら港湾の領域ではなくなってしまう,ということのようだ。

石狩灯台から2,500mといえば,南西へは石狩斎場や名無沼のちょっと先,北東へは右岸の衛生センターのあたりまで。どちらへ向いても100%砂浜の誇るべき自然海岸。港らしいものはない。

否,あるのだ。河口導流堤こそ港湾施設と呼べるものなのだ。
港につきものの防波堤,防砂堤と同様に,導流堤も立派な港の外郭施設。
そして一歩?川に入ったらもう石狩港とはいわない。

灯台などの航行援助施設も港湾施設に加えるなら,石狩灯台とともにかつて右岸にあった石狩川口灯台も港湾施設といえるのだろうが,いまはない。

■ だからここでは唯一の港湾施設・河口導流堤工事(石狩港修築事業)の歩みをまとめてみる
(当初計画では延長800m → 630m)

昭和34年 第一突堤完成 80.0m 昭和45年 融雪洪水により被災
昭和35年 第二突堤完成 180.0m 第一突堤の下流約230m,導流堤の基部
昭和36〜39年 導流堤施工 109.1m 第1次港湾整備5ヵ年計画
昭和37年 突堤完成 120.0m 第一突堤の上流約150m
この突堤は,のちに新・知津狩川水路掘削により埋没
昭和40〜42年 導流堤施工 177.0m 第2次港湾整備5ヵ年計画
昭和43〜45年 導流堤施工 167.6m 第3次港湾整備5ヵ年計画
昭和45年 第三突堤完成 80.0m 第一突堤の上流約130m
昭和46〜48年 導流堤施工 176.3m 第4次港湾整備5ヵ年計画
昭和46年 第一突堤復旧 125.0m

石狩市民図書館所蔵の図面”石狩港” (昭和36年度予算要求に使われたものと思われる)
『北海道港湾建設史』 より,石狩港現有施設図


■■■ 参考文献 ■■■

寒地土木研究所 技術研究発表会 収録論文
『石狩港導流堤施工に伴う河口付近の諸変化』
『石狩川河口水制工事報告』
『石狩港第一,第二突堤工事概要について』
『北海道港湾建設史』         監修 : 北海道開発局港湾部
『石狩川治水史』                監修 : 石狩川開発建設部
『札幌河川事務所20年史』  発行 : 石狩川開発建設部 札幌河川事務所
『石狩町史 中巻二』
『昭和34年度 石狩港調査報告書』  発行 : 小樽開発建設部


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