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オタルナイ橋に関するメモ

2013.12.01 公開
2017.05.01 更新

このページは,【花畔・網】『廃橋ツアー』から参照されるためのもので,独立したページではありません。
検索エンジンなどからたまたまここに飛び込んだお客さんは,上記ページの”小樽内橋”の項にお戻りください。

新川(オタルナイ川)に架かるオタルナイ橋,あるいは新川(オタルナイ川)河口を渡る石狩-銭函間の交通路に関わる歴史的な記録を集めてみたページです。

実際にはそれ以上の物語が隠れているに違いないことはいうまでもありません。

なおまた橋に限らず,石狩に関連する遺構に関心のある方々は,”石狩の遺構をたずねる” をぜひご参照ください。

赤字の項目 20万分の1, 5万分の1地形図,石狩町管内図 からの読み取り
緑字の項目 国土地理院 - 地図・空中写真閲覧サービス のページから入手した写真からの解析
写真 「石狩市 21世紀に伝える写真集」
「樽川百年史」
歴史資料 「石狩町誌」
「樽川百年史」
「たるかわの歩み」
ほか
茶色の文字 最新の追加/修正部分


明治以前 銭函から石狩にかけての海沿いに踏み分け道がつけられる。砂丘に沿った”ハマナスロード”だった。
この小径は「浜中道」とも呼ばれ,江戸時代(1700年代)から明治の初めにかけて主要な交通路だった。
現在では石狩湾新港建設により分断されているが,新港より北の石狩市道「石狩樽川海岸線」の多くは,この道をベースに建設されたものと思われる。
いまでは汀線より200mほど内側を走るが,かつてははるかに波打際近くだったに違いない。
1806 文化3 幕府目付遠山金四郎景晋,勘定吟味役村垣左太夫定行らが西蝦夷地巡検のためこの道を歩いたという。(『西蝦夷日記』)
1858 安政5 それまでは船渡しであったオタルナイ川に,初めて木橋架設。 長さ30間,幅3間
その後なんども,流失,架け直しが繰り返されることになる。
銭函から石狩に来た松浦武四郎も,この木橋を渡ってハマナスロードを歩いている。(武四郎注釈)
1879 明治12 小樽内川に板橋架設。 長さ10間,幅2間
1884 明治17 小樽内川-琴似川間大排水(新川)掘削開始 → 1887 (明治20) 竣工
1892
1896
明治25製版-20万分の1図
明治29製版-5万分の1図 
石狩から銭函方向への道路としては”ハマナスロード”が記載されているのみ。
1895 明治28 花畔・銭函間運河着工 → 1897 (明治30) 竣工
運河の掘削土を盛り土して運河沿いに道路も開通
後にこの道路は石狩湾新港後背地の造成により経路が変更されるまで,国道337号の一部とされた。
1901 明治34 小樽内川(新川)に架橋 現在の廃橋・小樽内橋とほぼ同じ位置に架けられたものと思われる。
1902 明治35 石狩より銭函に至る5里10町の新道が開通,いわゆる「銭函街道」である。
「石狩街道」の矢臼場から分岐して海岸保安林内を縦断,十線浜(分部越),オタネ浜(オタナイ)を経て銭函に至る。
”ハマナスロード”に替わる主要道として利用されるようになる。
後に,町道「石狩樽川線」あるいは道道225(旧115)号「小樽石狩線」の一部として認定された。
現在では矢臼場からのごく一部分だけが利用されているに過ぎない。
旧樽川地区の保安林内には,鬱蒼たる林の中にかつて道路があったらしい微かな痕跡を感じとることもできる。
1910 明治43発行-5万分の1図 2本線のしっかりとした道路(車道)として「銭函街道」が保安林内に初登場。
同時に,花畔・銭函間運河沿いの道も細い道として記載されている。
一方,”ハマナスロード”の記載はこの時点で消えている。
1926 大正15発行-20万分の1図 銭函街道 2本線
運河沿いの道 1本線
ハマナスロード 記載なし
1926 大正15 銭函街道,新川の橋架け替え。 長さ12間半,幅1間半
1930 昭和5 樽川橋(小樽内橋?)渡り初め [写真]
1946 昭和21発行-20万分の1図 銭函街道 1本線
運河沿いの道 2本線 【関係逆転】
1957 昭和32 銭函街道(一部),石狩町道認定 「石狩樽川線」 矢臼場~樽川10線の交点
1957 昭和32 道道・小樽石狩線,路線番号115号として認定 銭函町(国道5号)~石狩町矢臼場25-1
石狩町道「石狩樽川線」と重複?
1961.05.14 新川河口部は右に蛇行,旧オタルナイ川のそのままにしばらく海岸線に沿って流れている。
現廃橋があるあたりに橋が架かっている。川幅は狭い。
1962 昭和37 8月,小樽内橋流失 [写真]
1962 昭和37 12月,小樽内橋修復・渡橋式 [写真1][写真2]
"小樽内川橋"とあり,この時点では完全に木橋と思われる。
1962 昭和37 5000分の1国土基本図より抽出 - 橋が架かっていない。新川河口部は蛇行している。
1963 昭和38発行-石狩町管内図 矢臼場からの保安林内を縦断する旧・銭函街道(2本線)は花畔9線で終る。
ここから斜め防風林沿いに転じて樽川10線で花畔銭函間運河沿いの道に合流。
さらに樽川3線を過ぎて右折し保安林を横断,オタネ浜へと向って新川を渡る。
保安林を横断してオタネ浜へ向かう道は,悪路ながら現在でも歩行可能。
1964 ~ 1968 新川河口部,ショートカット,護岸工事実施
1967.05.25 新川河口部は海へ短絡されている。 旧オタルナイ川河口部は切り離されて沼となる。
1966 昭和41 11月 現廃橋・小樽内橋右岸鋼材橋歴板に "北海道建造"。すなわち,道道橋として建造されている。 実際の橋の完成は翌1967年か?
1968 昭和43 石狩町道「石狩樽川線」,道道に昇格 「小樽石狩線」
1971.06.10 橋は健在 "木-鋼-木"橋と思われる
1971 昭和46 5000分の1国土基本図より抽出 - "小樽内橋"と明記されている。新川河口はショートカット済み。
小樽内の集落はまだしっかり存在している。
1972 昭和47 新川河口橋 [写真] 両側木橋で中央の河道部のみ鋼橋。現廃橋の原形か…
1972 昭和47 石狩湾新港用地内の農・漁業者,移転契約完了
1973 昭和48 石狩湾新港工事着工
1975 昭和50 石狩町旧・樽川村の一部を小樽市に割譲。十線浜,オタネ浜は小樽市域となる。 (現・銭函4,5丁目)
1975 昭和50 花畔銭函間運河沿いに国道337号認定 一部,道道115号と重複
小樽内橋はこのころ道道から外れ,小樽市道となる? 「樽川3線」
1978 昭和53 このころのドライブ記録。『当時は石狩湾新港も出来ていなかったので、銭函→大浜(現ドリームビーチ)→小樽内橋→オタネ浜→十線浜→現新港付近→旧石狩市街(石狩番屋)まで海岸沿いの道路をドライブできました。あちこち砂だまりがある道路で埋まりそうな感じの悪路で楽しかったです。』 mayan さん情報
1976.08.26 橋は健在 "木-鋼-木"橋と思われる。 川幅はまだ狭い。
1981.06.27
1982 昭和57 6月 現廃橋・小樽内橋左岸鋼材橋歴板に "小樽市"。 実際の橋もこの年完成したのだろう。
1984.05.29 新川左岸部,河道拡幅されていているが,左岸部の橋はまだ見当たらない。
この記述は間違っていた。高解像度画像を見ずに粗い画像で判断してしまったようだ。
下の”空中写真による検証”でも 1983.05.12 の段階ですでに河道拡幅護岸,左岸側の鋼橋化が完了している。
1985.09.11 新しい"鋼-木"橋は立派に機能しているように見える。
下に引用した北海道建設新聞 2016.03.24 の記事,あるいは北海道新聞 2016.04.07 小樽・後志版の記事によると,木製部分は 1985年に崩落したとされる。しかしこの空中写真ではそのような徴候はまったく見られない。
崩落したというより,老朽化により危険に状態になったのであらかじめ通行禁止措置が取られた,ということなのだろう。
1988.07.01 川幅は広く,"鋼-木"橋もあいかわらず健在そう。だが,右岸側アプローチが切れているようにも見える。
この時点ではすでに通行禁止と思われる。
1989.06.10
1993.07.02 右岸側の木橋部分はいまだに健在そうにも見えるが,橋の両端が切れていてすでに完全に通行不能なのが分かる。
1994 平成6 道道・小樽石狩線,路線番号を225号に変更
1998 平成10 通行止めになっていたらしい。 [参照]
2001.07.27 右岸側木橋部分は明らかに失われている。
2014 平成26 「小樽市橋梁長寿命化修繕計画」によると,”今後10年間で修繕・予防保全を予定する橋梁”のリストの中で小樽内橋は(撤去予定)とされている。なんとかならないものか・・・
2017 平成29 新川右岸河口へ向かう道路の入口,第一新川橋のたもとに,北海道建設管理部によりゲートが設置される。
これによりオタルナイ橋右岸側に近づくには約1.5km歩かなければいけなくなった(片道)。
オタルナイ橋左岸側にはバッタ塚駐車場から約500m。
撤去の動きはまったく見られない。(2017.04.23)


空中写真による検証 (2014.12.12)


なお空中写真はすべて,国土地理院 - 地図・空中写真閲覧サービス のページから利用させていただきました

1961.05.14
(昭和36)
新川は河口部で旧オタルナイ川に接続され,蛇行して石狩湾に注ぐ形はまだそのままである。
現在の廃橋よりやや上流と思われる位置に橋が架かっているのが見える。
もしかしたら1962年8月の洪水で流失した橋なのかもしれない。
その後修復されたものと思われる橋が写った空中写真は見つからなかった。
1967.05.25
(昭和42)
新川河口はショートカットされてほぼ直角に石狩湾に流れ出ている。
旧オタルナイ川の蛇行部分は切り離されて沼化している。

この時点では,道道となる橋の新設工事の最中だったようだ。
左右両岸の木橋部分はすでにできているようだが,中央・低水路部分にはまだ架かっていない。
工事現場のやや上流にも斜めに架かる橋が見えるが,おそらく工事用の仮設橋なのだろう。
1971.06.10
(昭和46)
”木-鋼-木”構造の道道橋。
1976.08.26
(昭和51)

同じ日の空中写真だが,左の写真とは撮影ポイントが異なる。
橋を見る角度が直下より前方に傾いた分橋脚もはっきり見えて,橋の構造がよくわかる。
中央・低水路部分の2径間のみ鋼橋。両側は,左岸も右岸も木橋と思われる。
中央の鋼橋2径間は径間長が異なっていたようだ。
後に河道拡幅の際障害となって短い方の左岸側1径間は撤去されることになり,長い方の右岸側1径間のみ現在まで残ることになる。
1983.05.12
(昭和58)
治水上の観点から,河道を拡幅して左岸を護岸する要請があったのだろう。
1983年5月の時点では河道拡幅ならびにコンクリート護岸工事が完了している。
それに伴って,左岸側はすべて鋼橋に架けなおされている。(次項1985年の写真参照)

工事が始まる前の写真も付記する。
1981.06.27 (昭和56)
河道は前項(1976年)の写真と変わらず,狭い。橋は”木-鋼-木”構造。
1985.09.11
(昭和60)

左岸側はすべて鋼橋,右岸側のみ木橋という構造で立派に機能していたころの貴重な写真である。
鋼橋部分は左から3径間が新設橋,径間長が大きい一番右が道道当時からの古い既設橋である。
1993.07.02
(平成05)

よく見ると,橋の両端が切れてアプローチの道路に繋がっていない。
この時点ですでに,小樽内橋は通行禁止措置がとられていたことが分かる。
左岸側に架けなおされた鋼橋はまだ10年ほどしか経過していないわけだから,右岸側の木橋部分の安全性に問題が生じたのだろう。
2008.05.30
(平成20)

これがほぼ現在の姿。
右岸側木橋は撤去されている。


撤去への動き


2016.03.26

3月24日の夜から妙に『廃橋ツアー』へのアクセスが多い。
どうやら,北海道建設新聞社の 2016年03月24日 19時26分 付けの記事
30年間通行止めの橋を小樽市が4億円投じ解体へ-18年度から
が発信地らしい。(石狩側の桁崩落の年度は間違っているのでは?)

2014(平成26)年3月付けの”小樽市橋梁長寿命化修繕計画(概要版)”で小樽内橋が今後10年間に撤去予定となっていたのは目にしていた。意外と早く動きが始まったようだ。

記事によると
2015年度 現地調査,地質調査,基本設計
2016年度 発注
2017年度 予算要求
2018年度 着工,工期は最短でも3ヶ年,さらに年数を要する可能性もある
という。

順調に進めば5年後の2021(平成32)年度末には姿を消すということになる。

新川(かつてはオタルナイ川)河口は,古くは渡し船で,そして橋が架けられては何度も流されつつ,江戸時代から銭函と石狩とを結ぶ主要な交通路であったことはページ冒頭にも書いた。
小樽内集落へのアクセス道路として橋が架けられたのではない。
河口を横断する銭函-石狩間の交通路の間にたまたまオタルナイ集落が位置していただけなのだ。
戦後には道道・小樽石狩線(銭函市街を通って石狩・矢臼場へ通じる)の一部として認定され,道道橋として架橋されている。
(のちに道道のルートが変更され,それに伴い小樽市道橋となる)

橋の位置もさまざま変遷したには違いないが,現橋の橋脚のひとつでも歴史的遺構として残すことはできないだろうか。

今後の動きをこのページで追い続けたい。(えっ!5年後・・・80近いやんけ。それまで生きている気なんだすか?)


HBC-TV 取材に当たって,オタルナイ橋に関する覚え書


2016.06.14

1600年代以降,松前藩により蝦夷地海岸沿いの各地にアイヌとの交易所=「商場,場所」が開設されていった。
  ・・・,ヲショロ,タカシマ,オタルナイ,イシカリ,アツタ,ハママシケ,・・・

 そうした中で,銭函から石狩,そして厚田へと,海沿いに歩く道は浜中道とも呼ばれ,江戸時代から陸上交通の要路だった。(ハマナスロード)
  イシカリ川とならんで,オタルナイ川にも渡し船があった。

 古文書にも1800年前後から海岸歩行の記録が残されている。
  1800年代中頃(安政の頃),蝦夷地を6度訪れた松浦武四郎もこの地をいく度か旅して,オタルナイ川に大きな木を渡して橋としていたということを書き記している。
  1858年(安政5),長さ30間,幅3間の木橋が架けられる。

 1900年代初め(明治35),石狩と銭函とを結ぶ新道が開かれ銭函街道と呼ばれる。矢臼場(西浜)から分岐,保安林内を縦貫,十線浜,オタネ浜を経て,ほぼ現在の位置に架けられた橋を渡って銭函に至る。
  ハマナスロードに替わる主要道として利用されるようになったが,洪水のたびに木橋はしばしば流された。

 昭和30年代に入り,道道旧115号(現225号)小樽石狩線(銭函-西浜)が認定される。銭函街道をベースとし,後に経路が多少変更された。

 昭和40年前後に新川河口はショートカット(直線化)される。
それにともなって,1967年(昭和42),道道橋として現在の橋が完成する。
中央部・低水路のみ2径間の鋼橋で,両側河川敷は木橋,という構造。
河道はまだ狭い。(現在の半分ほど)

 1972~1973年,新港用地内の農・漁業者,移転

 1975年(昭和50),石狩町樽川の一部を小樽市に割譲。➡ 銭函4,5丁目
  このころ国道337号認定(花畔銭函間運河沿い),同時に道道旧115号も経路変更され,オタルナイ橋は道道から小樽市道になったものと思われる。

 1980年(昭和55)代に入り新川の洪水対策として河道拡幅,護岸の必要性に迫られる。治水事業との兼ね合いからか,オタルナイ橋も中央から左岸側を改修。1982年(昭和57)小樽市道橋として完成。
  旧・鋼橋の小樽側1径間および木橋を撤去,石狩側の1径間は残してそれに新たに3径間の鋼橋を結合(鋼材の違いが明白)。石狩側河川敷の木橋はそのまま。

 1985年(昭和60),石狩側木橋は老朽化のため通行禁止となる。
  新橋が機能したのはたった3年間?

 2016年,小樽市ではこの橋を撤去することを決めた。(2018年着工)

 江戸時代から交通の要路であり,渡船があり,橋が架けられていたこと,オタルナイが「オタル」の地名のゆかりの地であったこと,などを彷彿させるモニュメントとして,障害にならない範囲で橋脚のひとつでも残せないものだろうか・・・


武四郎注釈 (2013.12.19)

当初,「樽川百年史」の年表に倣って1859(安政6)年としていたが,実はこの年には武四郎は蝦夷地を訪れていない。
橋を渡ったというのは『西蝦夷日誌』の次の記述によるものだろう。
弘化度通りし時,銭箱[銭函]より東は一軒の家も無りしが,今は此處(ヲタルナイベツ[小田川]なり)まで人家つゞきにしていと賑かなり。橋を越て素濱まで(一リ廿三町卅七間)行てフンベムイ(小休所一棟),名義,鯨がよる灣の儀。 (後略)
『西蝦夷日誌』は後になって抄録,編述したもので,安政4,5年(1857,8)の旅に基づいている。

ここで,弘化度とあるのは弘化3年(1846)樺太巡検の途中,銭函から石狩へ船旅をしていて,その様子は『再航蝦夷日誌』に綴られている。
川を渡りて浜通り道よろし,陸の方柳,玫瑰,茨多し。平坦にして此上の方ニは小沼多きよし也(後略)
また,安政3年(1856)の旅を綴った『廻浦日記』には”ヲタルナイ”の項に次の記述がある。
砂浜川有。巾十間斗。大なる木をもて橋とす。川深くして遅流,屈曲をなしたり。此処ヲタルナイ石カリの境目とす。